発火する凍原の声
わたしはすべてを憶えている。
▽
「どきどきするわ。今日はどこに行くの?」
「……まさかそれを言うために起こしに来たんですか?」
信じられないという顔をして呟いた青年に、少女は「ううん」と朗らかに首を振って、カーテンを束ねた。青年はこの上なく眉間にしわを寄せ、シーツから出した手で額を押さえる。白く乾いた陽の光とは裏腹に、空は低く、押し込められるような不快さがあった。無遠慮な陽光を雪原が反射し、目が眩む、頭も痛む。
「おなかがすいたの」
「……食事、あるでしょう。肉とか」
「兎を蒸したわ」
「はあ」
「これから食べるの。だから起きて」
ユアン、と高い声が青年を呼んだ。掠れた声で唸る青年が何か文句らしきものを思い浮かべる前に、は部屋を出て行く。ぱたぱたと遠ざかる軽い足音を聞いて、青年は髪をかき上げながら寝返りを打つ。
窓辺には金色の瞳をした黒い鳥が止まっていた。
長身の男の影が、壁をゆらゆらと伝う。男は端正な容姿の持ち主であったが、見る者を緊張させるような鋭さもまた、持ち合わせていた。大きな獣の緩慢さで階段を下り、食卓へと赴く。己の縄張りの中でも手狭なこの館のシンプルな構造を、ユアンは気に入っている。住処が大きく豪奢であることはよい箔付けになるが、生活をするのであれば無駄のないほうが好ましく、建てる際にやたらとこだわられた本邸は、いまや集めた魔道具を片っ端から放り込む倉庫として扱われている。
ユアンの弟子はすでに食卓に着き、少女らしい細足を床へまっすぐと垂らして、窓の外を見つめていた。雪原の反射を受けた目玉が、ひび割れた硝子のように輝いている。弟子はユアンがやって来たことに気が付くと、姿勢を揺らさないまま顔だけを向けてにこりと微笑んだ。
「それで、なんですって」
ユアンは蒸して割いた兎肉と香草をパンに挟んだものを齧って、尋ねた。蒸した肉と言うのはいまいち歯ごたえがない。東の国で調達してきた琥珀色の茶を傾ける。
「どこに行くの?」
「窓の外に鳥がいるのを見ましたか」
「いいえ」
「双子の屋敷に行きます。知らせがあったので」
思った以上に苦々しい己の声に、ユアンはうんざりするのを感じた。はそんな師に構わず、微笑んだまま「そう」と頷く。
「今日は特別な日?」
「どうしてですか?」
「わからない」
「……お前、あの屋敷を気に入っているのではないでしょうね」
「双子さまがシュガーをくれたわ」
「食べ物で懐柔されるんじゃありません」
「かいじゅう」
「手懐けられること、を、しないように」
「約束?」
「約束ではありません。今後もお前に約束をさせることはありません」
「うん」
微笑みを伴った、模範のような声が返る。こどもは大抵聞き分けがよかったが、それは忠誠心故ではなく、己の意見を多く持たない故の従順さのように窺われた。
弟子はパンをちぎって小さな口に繰り返し運ぶ。肉にフォークを突き立てる。パンに肉を挟むと口に入らないのである。細腕は生白く、はたいただけで折れそうだ。脆弱でない部分がない。脆弱なのはよくない、とても。
「文字を教えてもらったわ、この前は」
「文字?」
「フィガロが」
「フィガロ? ああ、あの若いの」
「フィガロは若いの? ユアンは何歳?」
「内緒」
ユアンは答えた。数えるのが面倒なだけだった。
「午前は軽く稽古をつけます。片付けが終わったら外に出るように」
「双子さまのところに行かないの?」
「ええ。癪ですから、せいぜいゆっくり時間を潰してから」
を拾ってからしばらくが経つ。背丈こそ幾分高くなったものの、こどもの形であることに変わりはない。ユアンはこの幼い弟子が石になれば、己が不快な気持ちになるだろうと言うことを理解していた。
目に付いたので拾った。少し前に双子が弟子を取ったところで、あの鬼畜どもにできるのなら己にできないことはないだろうと、頭に過ったためでもあった。
無論、拾ったものは己のものである。北の魔法使いは執念深いドラゴンのように、己のものが損なわされたり、奪われたりすることをよしとしない。財産を守るすべなら知っている。しかし、こと弟子に関しては、後生大事に飼うために拾ったのではなく、ひとりの魔法使いにするため選んだのだから、ユアンはを教育する必要があった。そもそも目を離したら勝手にあちらこちら移動しているものを逐一危険から遠ざけるのは面倒だし、現実的ではない。生きることくらいはそのうち勝手にできるようになってほしいと、ユアンは思っている。犬のように躾けたいとは思わない。
「息を詰めるのはやめなさい。呪文を唱える邪魔になります」
「うん」
「受け止めることは、今のお前が考える必要はありません。では、もう一度」
とは言え、ユアンは他人にものを教えたことなどなかったので、目の前で手本を示すか、弟子を相手に殺しの真似事をするかしか知らないのだった。
魔法使い同士の殺し合いに比べれば児戯のようなそれが、少女の体を打ち据える。はね飛ばした小さな身体が、毬のように転がっていく。ユアンはゆっくり歩み寄り、その頭の傍らに立つ。
に攻撃魔法の才はない。魔力の量や質の問題ではなく、センスがない。ユアンは早々に攻撃魔法を仕込むことを諦めた。ないものは仕方がない。攻撃魔法を使わなくても逃げたり、他の魔法使いを石にしたりする方法はいくらでもある。それらをすべて叩き込む。生きるために必要なことは、すべて。
「痛みますか」
「うん」
「痛みを恐れなさい。痛むことは良くないと、身体で覚えること」
「うん」
「お前は生きていれば十分です、とりあえずは」
死なないようにというのが最大の目標で、目的である。それさえできるなら、後はの好きにすればいい。
わかったわと答えた弟子は、しかしすぐに関心を他所に移したらしく、踏まれた花弁のように身体を投げ出したまま、明後日の方向を見つめて言った。「まあ、蝶々」。視線の先では北の国には珍しく、小さなそれが羽ばたいている。
「……」
がらんどうに言葉を放り込むようだ、とユアンは思う。泣きもせず言いつけを守るのは楽でよい。しかし、魔法使いとしては資質に欠ける。
死ぬなと言ってあるので死なないように振舞っているが、死ねと言われればそのまま死ぬような張り合いのなさ。いっそ逃げ出そうとするくらいの方が見込みがある。稽古が嫌なら逃げてもよい、逃げられるだけの力があるのならと伝えたときには、ぽかんとしているばかりだったが。
腕を掴んで起こそうでしたところで気がつく。
「ああ、骨が折れていますね。脆すぎる」
「折れてるの?」
「ええ、これは骨が折れているという状態です。よく覚えて、折れないようにしてください」
「わかったわ」
「本当でしょうね……」
ユアンはの折れた腕の骨を固定しながら、木々の間に消えていった先の蝶の鱗粉が、占いの魔法を使う際の触媒になることを教えた。
「お前は欲望を持つとよいでしょう。生きるのに必要なものです」
「それって、どうすること?」
「マナ石を食べたいとか、自由になりたいとか、殺し合いがしたいとか」
「うーん」
ユアンは記憶にある限りマナ石を食べたかったし、より自由になりたかったし、殺し合いがしたかったので、弟子がそれらを積極的に望まない理由は想像できなかった。欲望のために生きているという自覚があったし、矜持もあった。己の尽きぬ渇きを好ましく感じてすらいる。
「あとはなんでしょうね。財産を増やしたいとか、ながく生きたいとか、畏れられたいとか?」
「そうなの」
「わかりますか?」
「いいえ」
師弟は揃って首を傾げる。「まあ、いいです」。両手に収まる程度の知識も持たないこどもにあれこれと言っても仕方あるまい。幸いユアンは長いこと、一所に留まらない生活を続けている。あちらこちらへと赴くうちに、弟子も欲のひとつやふたつ、そのうち見つけることだろう。そうでなければならない。
「そろそろ発ちましょうか」
「うん」
「よろしい。今日は空の様子が妙ですから、集中を切らさないで。落ちそうになったら叫びなさい。くれぐれも黙って落ちていかないように」
ユアンはに箒を手渡した。こどもの身体に合わせたものではない、その身が成長しきった頃にやっと見合うようになる尺のものだ。
は抱えるようにしてそれを受け取りながら、視線だけはじっとユアンを見上げた。皮膚の薄い頬についた泥を指先で払ってやる。
「ユアンには欲望がある?」
「ありますよ。俺はね」
一等強い魔法使いに会いたいんです。
は、ユアンが微笑むのを見た。神殿に佇む石像のように歪む口元と獣の王のように爛々と輝く瞳が、ではないどこかに向けられているのを、見た。
「お前も魔法使いならいずれ出会うでしょう。魂に焼き付いて離れないような欲望に」
▽
そして、閃光、雷鳴。
23.04.27