rainy romantica
注:世界観捏造過多。
ひたひたと、もうじきに止むであろう雨音を、ずっときいている気がした。
現と夢のあわい。いつもよりうすぼんやりとした視界では、ベッドの淵を飾る彫刻の造形も満足に捉えられない。その代わり鋭敏な耳が拾うのは、暖炉の薪の小さく爆ぜる音、窓の向こうの水の滴り、どこかで金属の擦れる音。キッチンの方向からだから、誰かが夕飯を作り始めたのかも知れないし、こっそり独り占めするための遅いおやつを作っているのかも知れない。それを探ろうにも、今はただ、深い神秘のにおいがするばかりだった。なにものにも侵されない、強く、無垢な気配。肌触りのいい布地に再び頬を寄せて、目を伏せる。温かい。ぱた、と軒から滴が落ちる。ああ、止むのだろうか。雨の降る間は、薄膜に覆われるような心地がして、不安で、快い。吐いた溜息が、この時間を惜しむものなのか、安堵によるものかがわからないくらいに。あまり身を浸してはいけないと、そう言えば、誰かに言われたことがある気がするのだけれど。
「なにをしている」
降る声は丁寧に濾した夜の質感だった。私は小さな前足を彼の膝について身を起こし、これまた小さな身の丈ほどの距離を跳び下りた。返事をしたつもりが喉から零れたのは「わふ」と可愛らしいばかりの鳴き声だけ。絨毯に降りた後ろ足は、正しくひとの足へ。パンケーキ色の毛皮で覆われた前足は、白い腕に変わる。鏡がないから確認できないけれど、彼の瞳には女が一人映っていることだろう。おはよう、オズ。私がそう言って微笑んで見せると、彼は眉一つ動かさずに「眠っていたわけではない」と言った。視線は冷淡ではあるが、咎める色は薄い。疑問の方が色濃いようにも見える。
「雨音をきいていたの。あなたの膝を借りたわ」
「貸した覚えはない」
「だってあなた暇そうだったから、構わないかと思ったの。結界も触らせてくれたし、留まることを許してくれたでしょう?」
「放っておいただけだ。お前の力では私を害することはできない」
「その力もないし、理由もない」
「私を殺して石を手にすれば力が得られる。魔法使いであれば、十分に理由に足る」
「石のあなたより、生きているあなたの方がいいもの」
「何故」
「ふ、ふふ。石のあなたとはお話しできないから」
わからない、と言う顔で口を噤んだ彼が可愛らしい。こういうところがあるから、あの双子さまも構いたくなるのだろうと思う。今回も彼らに引き留められたのだろうか。彼の兄弟子が声をかけた可能性もある。なんにせよ彼が魔法舎に留まっていることは、私にとっても幸いだ。
「犬はお嫌いだった?」
「特に好きでも嫌いでもない」
そうだろうと思って、私は頷いた。それから、彼の座るソファからひとり分の間を空けて置かれたもうひとつのそれに腰を下ろす。彼は堂々と居座り始めた侵入者を見ても、ほんの少し眉を上げただけでやはり咎めることはなかった。本当に暇なのかもしれない。呪文を唱えてワインとグラスを呼び出す。どちらも西の国で買い付けたお気に入り。一つを彼に差し出せば、しばしの沈黙の後受け取られる。あまり期待していなかっただけに気分がいくらか高揚して小さく笑った私に、彼が視線だけでなんだと問うた。
「なんでもないの、嬉しいだけよ」
「なにが」
「あなたが私につきあって下さるのが。最近はお忙しそうだったもの。世界征服、楽しい?」
「楽しむためにしているわけではない」
「なら、どうして?」
彼は暖炉を見つめて、それから何も言わなかった。帰れとも。ベルベットのように重い沈黙の間に、やがて再び水粒が窓を打ち始める。私はぼんやりとそちらを見つめた。薄い雲の向こうで、なおも煌々と月が輝いている。ざあ、と遠くで木の葉が掠れる。そういう時、私はすうっとそこに引き寄せられて、ここからいなくなってしまう心地がする。
「雨が気になるのか」
ふいに沈黙を破った言葉に一瞬呆けてからそちらに視線を移すと、彼もまた私を見ていた。火に照らされてもなお、熱を帯びないガーネットの双眸。拡散していた心は、瞬く間に彼に集束する。魔法のように。
「先程も言っていただろう。雨音をきいていたと」
「うん」
「……」
「……雨が降ると、覚えていない頃のことで心がいっぱいになるから」
彼はただ私の言葉に耳を傾けていた。私はグラスに口付けて、唇を少し湿らせた。誰に知られても構わないことを、しかし彼に話すのは、秘密を打ち明けるみたいに指先がくすぐったくなった。私、他の魔法使いより、昔のこと、いろんなことをたくさん忘れてるの。言葉を続ける。
「それはよくないことだからあまり考えるなって言われていたのだけれど、私、はじめは東の森にいたんですって。……覚えていないはずなのに、雨の日は夢みたいに浮かんでくるの、緑の濃い湿った森のなかで、今よりも体がずっと軽くて、もっと世界の深いところに触れてたときのこと。私、そこで……」
「もういい」
「そう」
「考えるなと言われているのなら、思い出すな」
重々しさを帯びた彼の声に、私はだけど声をこぼして笑ってしまった。
「ねえ、オズ。オズ、私、あなたの近くが好きよ。だって冷たくて澄んだ湖の気配がするんだもの。そうしたら私は、私がどこだかわかるから」
彼は一呼吸の間を空けて、そうかと頷いた。響きは淡々としていたが、私は酷く満足した。どれだけの間か、部屋を満たす沈黙に身を委ねていると、やがて白明が差し込む。随分と長居をさせてくれたものだ。とうに空になった二人分のグラスを指先ひとつで片づける。これから眠るだろう彼におやすみなさいを告げようとして、彼の方から名前を呼ばれた。「」。返事の代わりにその眼を見つめる。お前の問いの答えだが、と彼が言う。
「自由のためだ」
「自由?」
「何故世界を征服するのかと、私に問うただろう。世界を支配すれば、それが手に入ると考えている」
淡々とした告白だった。彼の欲しいものが何なのか、私にははっきりとはわからないような気がした。今が不自由だなんて、私は感じたこともなかったからだ。ただ彼の告白が真摯で、汚しがたいなにかをはらんでいることは間違えようもなかった。それは一筋の風で崩れてしまう、湖面の静寂にも似ていた。
誰にも邪魔をされたくない、とただ思った。
「自由になったら……」
「なんだ」
「……ねえ、オズ。世界を征服するときは、とどめをさす前に教えてね」
「何故その必要がある」
「私、魔法使いに世界が征服されるところなんて、まだ見たことないもの。見逃してしまったら、もったいないわ」
「……私は約束はしない」
「もちろん。でも、もしあなたが思い出して小鳥の一羽でも送ってくれたなら、私きっとどこでも飛んでいくわ。だって私達は、魔法使いはどこにだって行けるんだもの」
立ち上がって彼に笑いかけると、呆れたように小さな溜め息を吐かれる。期待はするな、とわざわざ忠告してくれる彼の誠実さに頷きながら、その頬を指先で捉えた。難しそうな顔はするものの、殺意や敵意以外への反応が緩慢な彼はその数秒を私の好きにさせてくれる。そのまま前髪に軽く触れて、白い額に口づけた。
「おやすみなさい、かわいいひと。あなたの行うことが成されますように」
あれはいつの災厄の頃だったろう。
ちょっと前か相当前かで言えば、ちょっと前だろうという程度の検討はつく。数百年も生きていればそんなものだと誰かに言われたことがある。私でそうなのだから、彼はなおのことだろう。彼とは一度か二度か顔を合わせているが、特にあの時のことが話題に出ることはなかった。雑談と言えば雑談であったし、改めて話す気にはならなかったが、彼の顔を見ると時折思い出された。彼の方はと言うと、もう忘れているかもしれない。それならば、別にそれでもいいような気がする。
彼と顔を合わせた数の何倍も、彼の噂を行く先々で耳にした。その殆どが恐らく真実ではなかったが、世界征服はどうやら概ね順調らしかった。彼の欲しいものは手に入るだろうか。手に入ればいいと思う。手に入らないんじゃないかな、とも思う。
特定の住処がない私は、例年通り月が近づく頃合いに魔法舎に足を運んだ。月の模様が精彩さを増すほどに、血潮が惹かれるような落ちつかなさをおぼえる。そういうときには同胞の顔を見るといいと昔誰かに言われて、いつからかそれが習慣のようになっていた。同じような理由だったり、違う理由だったりして魔法舎には誰かしらが集っていた。今年はオズもいるようだったが、タイミングが悪いのか未だ顔を合わせることは出来ていなかった。
「おぬしもじっとしておらんからのう」「そうそう、おてんばじゃ。今日はどこまでいくのかの?」
双子がカラカラと笑う。談話室でお茶をしている二人に捕まったついでに、鏡替わりを務めてもらうことにした。私は髪を赤毛にしたり栗毛にしたり、あるいはワンピースの袖をパフスリーブにしたりバルーンスリーブに変えたりしながら「だって」と言った。
「街の様子はすぐに変わってしまうんだもの。人間は簡単に死んでしまうけど、新しいことを考えるのが上手」
「楽しそうで何よりじゃ」「我、たまにはお土産欲しーい」
「ねえ、おじいちゃまたち。今日のお洋服には栗毛が似合うかしら。私、街娘に見える?」
「おにいちゃまって呼んで!」「似合っとるけどせめておにいちゃまって呼んで!」
変装の魔法もうまくかけることができたようなので、「いってきます」と言って談話室を後にしようとすると、「今日は夕飯までには帰って来るんじゃぞ」とどちらかが言った。
「帰りは寄り道しないようにの」
「どうして?」
「さて、どうしてかのう。ちなみに、今日のデザートはあまーいルージュベリーのコンポートじゃ」「早く帰らんと無くなってしまうかもしれんのう」
「素敵。私、いい子で帰って来るわ」
街の外れで箒を降りた。小さくしたそれをハンカチに包んでポケットにいれる。胸を弾ませながら、艶やかな靴で拙く舗装された道を踏む。
ひとの手で調理されたものを食べること、よく手のかけられた服を纏うこと、ひとの手で作られたものを持ち、言葉やお金を使うこと。
よく心掛けなさい、と師は言った。私もそうすることは嫌いではなかった。そうするたびに、私は森から剥がれていった。
「お嬢さん、ここらのひとじゃないな?」
交易点ともなることから、この辺りは瞬く間に繁栄した。少し前までは砂ばかりの更地だったのに。氾濫する物の数々に目も眩むような心地を覚えながら、ふらふらと酩酊感を楽しんでいると、通りに開けた小さな店の前で声を掛けられて、私は足を止めた。くすんだ赤毛の青年が人の良さそうな笑みを浮かべる。恐らく青年で正しいかと思うが、人間の歳を見た目で察するのは難しい。人間に限った話でなく、私は魔法使いの年齢もよく分からないのだが。死んだ師は死ぬ時まで年若い青年の容姿をしていた。
「こんにちは、どうしてわかったの?」
「キレーな翡翠色の目ェしてんのなんざ、貴族様だって相場決まってるさね。お供もつけずにお忍びかい?」
「まあ、バレてしまったわ。どうしましょう」
「はは、口止め料をもらわにゃな。まあ見てってくれよ」
瞳の色はブローチに合わせたもので特に意識はしていなかったが、今後は気を付けて選んだ方が良さそうだと思った。覚えていられない気もしたし、前にもこんなことがあったのを忘れているだけのような気もする。
私は青年の言葉に頷いて、雑多に並べられた品をまじまじと見た。小さな燭台、鉱石で飾られたオルゴール、銀の栞。「ここでは何を売っているの?」。私が聞くと、青年は「なんでもあるさ」と言った。私はその答えがおかしくて笑う。「なんでも? 素敵」。確かに、店は物で溢れていた。私はその中からひとつを手に取る。それはひんやりとしていて、手に吸い付くようだった。光に透かすとわずかに紫がかって偏光する。
「良く出来た櫛だろう。北の国の洞窟で採れた水晶で出来てるって話だ」
「ほんとうかしら」
「証書はないんだが、まあ夢のある話だろ」
北の国のそれかはわからないが、事実、上等な品であった。例え偽りであったとしても、それなりの価値のものだろう。
「頂くわ、おいくら?」
青年が告げた値段はおおよそ妥当と思われ、持ち合わせも足りていた。「本当にお貴族様とはね」と笑う青年に、私もまた笑い返して店を出た。
この櫛で彼の射干玉の髪を梳くことができたらどんなに楽しいだろう。叶わなくとも、それを伝える空想だけで高鳴る胸をどうしてしまおうか。
軽いままの足取りで通りを歩く。人間の集まるところは雑多で、目まぐるしく、わずかの停滞もなく、蠢くように変化する。こんなに忙しなければ、きっと生きているだけで終わってしまう。それはどんな心地なのだろう。日が暮れるのも瞬く間だなんて。
日が沈みきる前に、ひとの流れはすでに変わっていた。皆足早に帰路に付いて行く。もう少し遊べるかと思っていたのにと思いながら踵を返すと、小さな身体にトンとぶつかった。はらはらと零れる白い花弁をぼうと見送り、「ごめんなさいね」と声を掛ければ、少女の細い肩が震える。ごめんなさい、と俯いたまま謝る声などさらに細く、折れてしまいそうだった。花を抱える籠が頼りなさ気に揺れる。花売りだ。
「お花、いくらか駄目にしてしまったわね」
「いえ……」
「お詫びに籠の中身、全部頂けるかしら」
これで足りると良いのだけれど、と数枚の貨幣を彼女の手の中に落とす。花の価値はあまりわからないので少々不安だったが、少女の顔を見るに不足はなさそうだった。スカーフを渡して包んでもらう間に疑問に思っていたことを口にする。
「みんな、急いでお店を閉めてしまったけれど、今日はなにか楽しいことがあるの?」
「この時期はみなそうです。……日が明けるまで外には出ません。厄災が近いから、魔法使い、……さまたちが近くまで来ていると」
「まあ、ふふ、それは大変。お花、ありがとう。あなたも気をつけてね」
「はい。……あの、お気をつけて」
手を振って小さな背中を見送る。再び歩き出すと、花束は甘く、楚々として香った。帰ったら花瓶に活けて、シュガーを少し溶かしてあげようと考えていると、はたと花弁が水滴を弾く。「あ……」。霧雨が肌に淡く触れるように降り始めた。傘を呼んだり魔法舎まで移ったりすることは出来るが、人目がないとはいえ、大きな通りで魔法を使うのは躊躇われる。さして不快なわけでもないし、このまま町の外れまで歩いてしまうのがいいだろう。それか、そう、やってみたいこともある。
横道に逸れた通りの奥に、もう使われていない教会がある。声を潜めて唱えた呪文が施錠を解く。重い扉を押しあけて中に足を踏み入れると、少し埃っぽく、しかし長く触れられなかった場所特有の、あの静謐な冷たさが濡れた肌の熱を奪う。私はわくわくする胸を抑えた。街の中で雨宿りをしてみたかった。
石造りの壁が守る沈黙を破り、奥までまっすぐに伸びる赤い道の上で二度、三度身を翻した。ふふ、と笑い声が零れる。「悪いことをしているみたい。素敵」。適当な席に腰を下ろす。ステンドグラスから、私たちの忌々しい厄災の光が降る。雲がかかっていようが雨が降っていようがお構いなしに、慎みなく私達を照らす。逃げ場なんてどこにもないのかも知れないな、と思った。逃げたいと思ったことはない。その時こそ、彼の魔法を一番近くで見られるのだから。
目を閉じると淡い雨音と、私の呼吸だけが耳に伝わる。体の奥が沈んでいく。少しだけ、と思いながら冷たく硬いそこに体を横たえる。木製のそこは、加工されてもまだ森のにおいを残している。花束が床に落ちた。湿った植物のにおい。
魂の一部を森の精霊に持っていかれたな。竜胆色の眼をした魔法使いが言う。拐われたのか迷い込んだのかは知らないが、魔法使いでなければとっくに森のものになっているところだ。君の師が君を森からひきはなしたことが君にとって最良だったかは、わからない。ただ魔法使いとして死ぬつもりがあるなら、東の森には二度と入らないことだ。
でも、清々しい気持ちなの。
欲もなく、智もなく、ただ精霊と遊んでいた私の魂は神秘そのものだった。特別な言葉を口にしなくても、世界の深いところに触れられた。時間を知らず、居場所を知らず、夜明けとともに白い花弁に浮かぶ朝露に口づけ、木の洞に身を置いた。湿った森のなかで名前を持たないそれらといつまでだって戯れた。世界と繋がるのに個は要らず、私もまた、名を持たなかった。過不足など何もなかった。
覚えていなくても、私はそこにかえることができるのを知っている。私のよすがをまだそこに残しているから。
「素敵」
「なにがだ」
「あなたとこんなところで会えるのが」
そうとわかる気配に知らずと呟けば、愛想のない声が帰ってきて笑ってしまう。私はゆっくりと目蓋を持ち上げた。高い天井を見つめる。身を起こすのも忘れて、足音もなく現れた彼の存在を視界の外に感じている。
「スノウ様とホワイト様かしら。あなたになにか?」
「お前の様子を見て来いと」
「ああ、本当にそうなのね? それであなた、こんなところまで?」
「……帰る。用は果たした」
「待って。お願い」
私は依然天井を眺めていたので、彼がどんな顔をしているのかはわからなかったが、難しい顔をしているだろうということは想像に難くなかった。それでも、呪文も立ち去る足音も聞こえない。「ねえ、オズ。近くにきて」。そう懇願した自らの声は、やけに他人事のように空虚に響く。少し掠れていたかもしれない。叶わないわがままを言ったという思いはあったが、意外なことにまたしても彼は去らなかった。足音がふたつ、みっつ。「もっと」。もう少し、と私は繰り返して言った。やがて彼は仰向けになる私の視界に入るくらい近づいていた。世界に触れるより、心惹かれることが手の届くところにある。私は、どうしてこんなことが叶っているのかわからなかった。手を伸ばして、彼の長い髪をひと房手繰り寄せる。「あなたの髪を梳いてみたい」。返事はない。首を少し仰け反らせ彼の瞳を見つめながら、食べ損ねたコンポートのことを思った。きっともう残っていないだろう。
「お前は何をしている」
「なにかしら。思い出せない」
「……」
「オズ」
「……魔法使いはどこにでも行けると言ったのはお前だ。私はお前が何を選ぼうと、止めるつもりはない」
「……ん、ふ、ふふふ。……ああ、待って、違うの。あなたが覚えてくれていたと思わなかったから、なんだか、堪らなくなってしまって」
呆れているような、戸惑っているような溜め息だった。わからないままの彼が可愛らしいと思うし、少し強引にわからせてしまいたいような気もする。私が戻らないかと思ったのか訊いてみたかったが、それは今度にしておくとしよう。
その代わり「手を貸して頂いても?」と伺うと、言葉もなく差し出された。冷たく少し乾いた彼の手に自分のそれを重ね、重心を預けて立ち上がる。急に体制を変えたせいかふらつく身体も、ついでに彼に預ける。
「もちろん、どこにでも行けるし、好きなところに行くわ。これまでも、これからも」
「……そうか」
もたれる私を退けることもなく、彼は静かに応えた。響きこそ無関心の色を含んでいたが、今日は随分と寛容なようだ。動物のように擦り寄っても咎められないなんて、つい線引きを間違えてしまいそうだった。どうしてか問うてみたい気持ちもあったが、それも今日のうちは止めておこう。夢に身を浸しすぎてしまったせいか、心も身体も十分に使えそうにはない。箒に乗れないほどではないけれど。
「なんだ……」
「あなたの箒の後ろに乗りたい」
「断る」
「そう……。ああ、そうだわ。じゃあ、シュガーを」
分けて、と頼もうとしたところで腕を引かれる。「んっ」。もともと彼に寄りかかっていたので衝撃はなかったが、額を彼の肩に押し付けることになった。尋ねる間もなく彼の呪文が空間に満ちる。ああ、夜のすべては彼の支配下だ。風で巻き起こる砂漠の砂のように、精霊たちが歓喜する。彼にはあまりにも容易い移動の魔法。瞬きひとつで、私たちは魔法舎に帰っていることだろう。
少し残念に思う。本当は彼とデートをしてみたかったのに。明日になったら打ち明けてみようか。あなたと腕を組んで歩いてみたいのだと。叶わなくても、やっぱり、きっと楽しい。
私たちは魔法使いだからどこにでも行けるけど、それだけではつまらないのだ。
企画/雨垂れ 2020.5