恋とかについてのはなし

 頭を締め付けられるような不快感に、目をきつく閉じる。不快感は治まるどころか、やがてはっきりとした痛みとして知覚された。一度自覚してしまえば腹部の疼痛も全身の倦怠感も鮮明になる。カーテンの隙間から差し込む光さえ今は疎ましく、ズキズキと眼の奥を苛んだ。なんなんだ。声を出そうとした喉がひりついているのに気づき、私はやっとそれがなにか思い出す。二日酔いだ。わかったところで痛みは和らがず、むしろいっそう不快だった。いい歳をして、とどこかで言われた言葉がよみがえる。うるさい。
 今日は何日だったか、午後から案件があるというのは覚えている。昨日確認してから飲んだから間違いないはずだ。そもそも今は何時なのだろう。スマホを求めて枕元をまさぐる。しばらく手元をさ迷わせても指先はそれを探り当てず、苛立ちとともに仕方なく身体を起こす。薄目で徐々に光を受け入れていると、ぼんやりとした違和感が滲み、それはすぐに焦燥感にとって代わった。これは私のベッドではない。壁紙もカーテンも見覚えがない。唯一の救いはベッドサイドのデジタル時計が、出勤までだいぶ余裕のある時刻を示していることだった。まあここがどこだかわからないので、仕事場までどれだけかかるかもわからないのだが。ここがどこだか知るにはやはり、そう、スマホが必要だ。ベッドの周囲にも落ちてないし、それどころか部屋中見回してもバッグさえ見当たらない。酔って捨てたのか。勘弁して欲しい。
 私の住むワンルームより広く、特徴のない寝室だ。キングサイズのベッドとサイドテーブル、クローゼット。おおよそ生活感はない。恐らくホテルか。私の身体も二日酔いの不調を訴えるのみで、着衣も乱れていない。大方酩酊したままチェックインしたのだろう。随分いいところに泊まってしまったようで宿泊料のことを考えると懐が痛むが、幸いなことに所謂”失敗”はしていないと見ていいはずだ。
 指を髪に通すと、キシキシと引っ掛かる。もちろんメイクも昨日からそのままだ。とりあえずスマホとバッグを探して、余裕があれば熱いシャワーを浴びよう。ホテルならばフロントへの内線もあるはずだし、諸々確認もしたい。

「ああ、起きたのか」

 兆しもなくドアが開くと同時に、聞き慣れた、しかしこんなところで聞くとは思わなかった男の声が飛び込み、思わず喉がひきつった。悲鳴は声にならず気管を痛める。どうして彼がここにいる。いやそれなら、ここに私がいるのはどうしてだ。「は、袴田くん」。やっと出した声はざらついている。彼がドアのそばから一歩でもこちらに動いていたら、パニックになっていたかもしれない。

「敬称が不適当だと言っているだろう。袴田さん、だ」
「なに?」
「なんだ」
「ここどこ?」
「……ふむ、まあ覚えてないとは思っていたさ」

 なんてことのないように「私の家だよ」と続ける彼に、へえ、と低く相づちを打った。へえ、いいとこ住んでるね。ホテルみたい。ホテルだったらまだよかったのに。家? 「気分は?」「煙草吸いたい」「全面禁煙だ」。そうだろう、期待はしていない。壁に寄りかかりながらこちらを見下ろす彼は憎らしいほど普段と変わりなく、動揺しているのは私ばかりだった。これはどういうことになるのだろうか。だってベストジーニストの家。家だ。せめて私がせがんだことではないと信じたい。鈍く痛む頭を、神にも祈るような気持ちで圧迫する。

「言っておくが、連れてきたのは私だよ。一応君にも了解は得たとは言え、酔っ払った人間の言葉を言質にはできまい。つまり私の独断というわけだ」
「よかっ……、助かりました。ありがとう。私のバッグとスマホ、ある?」
「ああ、リビングに。後で取りに来なさい」
「できればコーヒーも欲しいんだけど」
「カフェインも後にするといい。アルコールを大量に摂取した翌日は脱水症状になりやすい」

 例え脱水状態になろうが病気になろうが私は今コーヒーを飲みたいし、煙草を吸いたい。勿論そんなこと言わないけれど。彼がペットボトルのキャップを長い指先で一度捻り、また閉め直した。投げ寄越されたそれを受け止めるも、冷たさと重さで一度は取り落とす。よく見るラベルのミネラルウォーターだ。別にわざわざ緩めてくれなくてもキャップくらい自分で開けられると思ったが、喉が渇いていることは事実なので水は素直にありがたかった。昨晩の私はそれほど介護を要していたのか。記憶がないし、もはや思い出したくもない。水は美味しい。

「昨日来てくれてたんだね」
「あきれたな。自分で呼びつけたのも忘れたのか?」
「それは覚えてますけど、うん」
「いい歳をして前後不覚になるまで飲むのをやめろと言ったはずだ」
「いい歳って言われたくない」
「いい歳だろう。言われたくないのならそろそろ加減を覚えたまえ」

 彼はそう言って、これ見よがしに額の端を押さえため息を吐く。全く正論だが、二日酔いの頭が正論に対応していない私は心のなかで舌を出した。
 こんな話をしている場合ではないことはわかっている。聞かなければならないことがあると、彼が現れてからずっと思ってはいた。彼に限ってまさかそんなことはないと思うし、私自身、自分の状態がわからないわけではないが、それでも言葉の上で確認しておきたい。気の進まなさに項垂れていると、そんな私の姿にどう思ったか、幾分気遣わしげな彼の声がかかる。

「どうした。市販の薬くらいはここにもある。持ってこようか」
「いや、うん、大丈夫、ありがとう」
「そうか」
「あのさあ、袴田くん」
「ん?」
「一応……、なんですけど。私、昨日、あなたとなにかした?」
「……」
「……マジ?」
「なにがマジかは知らないが、君をそこに転がしたあとに緊急要請があった。私は先程戻ったところだ」
「それは……、お勤めお疲れさま。お忙しいね、No.4」
「それほどでもない。私の矯正を待つもののことを思えば」

 ここまでの不安を一掃する明瞭な彼の言葉に、私は胸を撫で下ろす。驚かせないで欲しい。途中で黙る必要あったか? 緊張がよぎった反動もあり大袈裟なほど安堵してしまったが、それを気にする男でもないだろう。嫌悪感からではなく、むしろ好意は十分すぎるほどに抱いているが、だからこそなし崩しで面倒事を持ち込みたくはなかった。ビジネス的にも個人的にも、関係を台無しにするにはあまりに惜しい人物だ。思わずよかったと口のなかだけで呟いてから、聞こえてしまったかとそちらを見ると、長い腕を組んだ彼と目があってしまった。君は、と彼が言う。

「私となにかあってはマズかったかな」
「……は」
「リビングにいる。送ってやるから、支度ができたら声をかけるように」

 彼の姿が扉の向こうに消える。固まったままの私をあっさりと置いて。
 私がマズいとかそう言うことじゃない、はずだ。いや、そう言うことなのか? そもそも彼の言葉もどういうつもりなのかわからない。多分、私が過剰反応してるだけだ。とりあえずいつも通りにしていればいい。送ってくれると言うのだからラッキーだ。
 まだ痛む頭を抱えて、ベッドから降りる。





 No.4ヒーロー ベストジーニスト、深夜の自宅デート? 超人気ヒーローの交際事情に迫る!
 下品に踊る見出しに頭を抱える。迫るな。どうするんだ、これ。スッパ抜かれてんじゃないわよ! 悪いのは概ね私だが、彼も彼らしくなく詰めが甘い。写真が不鮮明で決定打に欠けるからかテレビではたいして取り上げられていないのが不幸中の幸いだ。ネットが好き勝手言ってるのはいつものことだし、書いている内容も大したことない。恐らく大事にはならないし、マスコミ慣れしている彼の方はうまく流すだろう。私の身元もバレていない。よっぽどのことがない限り、私の方はどうとにでもなる。大抵の相手であれば、カメラのことなら私が上手だ。酔っぱらっていなければ。キリキリと胃が痛む。アイドル性はあれどヒーローの実体は公務員だし、その前提があるので外で食事をするくらいはたいしたネタにはならない。まあでも、そりゃあ自宅はダメだ。そんなに高い頻度で声を掛けていたわけでもないが、こうなってしまえば流石にしばらく仕事以外で会うわけには行くまい。失敗したなあ、と頭を抱える。失敗したのは彼の方だろうが。
 私と彼はそもそもなんでもない。なんでもないのをいいことに、仕事の繋がりだとかファン心だとか、そんなもので曖昧にじゃれついていたツケがまわってきたのだ。あんないい男がなんだか知らないけど構ってくれたら、調子に乗ってしまうのも仕方ないだろう。結局それも台無しになってしまったのだが。残念だが、とは言えいつまでも落ち込んでいられない。
 とりあえず通話くらいは問題ないだろうから謝っておくとして、あとは時間が何とかしてくれることを期待しよう。スマホを取り出して、少し悩んでから短いメッセージを打つ。ちょっと話したい。都合のいい時間ある? 当然のことだが、すぐに既読はつかない。準備の整ったモデルが現場入りする声かけに思考を切り替えて、私はカメラに触れる。
 この日の被写体は非常に優秀で、撮影はつつがなく終えた。気味の悪いほどにそつがないモデルだ。編集長とモニターを確認しながら思う。すぐにコツを掴んで高い頻度でほぼ満点の写りを見せるモデルと言うのは、ヒーローにも結構いる。例えば、ウワバミやベストジーニストなんかがそうだ。しかし今日の被写体は私の個性越しに覗いても全くブレなく、常に八割の完成度というところ。これ以上見せてやる気はないということか、挑戦的だ。まあ、編集長がオーケーと言うなら私の仕事はそこまでだが。
 現場の解散と同時に喫煙室に向かった。消化不良感を煙に溶かしつつ、何件かの通知アイコンから今一番優先度の高いものを選んで触れる。
 今夜20:00以降。迎えにいく。
 噎せた。通話でいい、とすぐに返信する。彼自身、自分の身辺に鈍感なたちではないし、事務所には彼に心酔する優秀なサイドキックが揃っている。記事のことを知らないわけでもあるまい。会う程度ではどうにもならないとしても、会って良いことがないのも明らかだ。画面をスクロールして、とは言え私も通話とは述べていなかったことに気づくが、それにしても。
 既読はついたが、返事が来ない。新しい煙草に火を着けながら時計に目をやると七時半を過ぎていた。リアルタイムのニュースを確認しても目立った事件も彼の活躍も特に載っていない。無意味に画面をスクロールしても返事は来ない。じりじりと灰ばかりが迫る。
 やがて何本めかのそれをねじ消した頃には、八時に差し掛かっていた。一向に動きのない画面をしばらく見つめ、通話アイコンに触れようとすると同時に、メッセージの通知が表示される。スマホを取り落としそうになりながら乱暴にタップ。
 地下駐車場。B29。

「袴田くんさあ」
「袴田さん、だ。年下」
「袴田くん、あれ読んだよね」
「ああ、話をするんだろ。少し走らせるが構わないな」

 構うが。シートベルトを閉めてくれ、と言われて釈然としないまま指示された通りにする自分が情けない。
 連絡の通り地下駐車場の指定ナンバーに向かうと、この間見たヤバイ高級車ではなくそれなりによく見かけるちょっといい車が止まっていた。ご丁寧にもスモークガラス。いや、ヒーローには多いけれど。密会じみてるなあと本気で嫌になりながら助手席に乗り込めばこれだ。なに考えてるんだ、このひと。

「超人気ヒーロー ベストジーニスト、今度は車内で密会? 支持率No.1 の気になるお相手は?!」
「なんだそれは」
「次の見出し」
「つけられていないことくらい確認しているよ」
「……私も、今のところ撮られてる感じはしないけど」

 君が言うならそうだろう、と彼が頷く。滑らかに車体が走り出す。私のどこを見たらそんな風に言えるのだろう。もちろん個性については明かしているし、何度も一緒に仕事をしているが、私は特別有能な人間ではないし、如何せん素行が悪すぎる。

「どこ行くの」
「君も食事はまだだろう? たまには私の選んだところに付き合ってくれ」
「それは……」
「そう心配しなくても、記事にはならないような店だ」
「……あなたの選択なら異議はないけど。それなりに反省してたんだよ、私」
「そうか、君が飲酒を慎むのは喜ばしい」
「それは慎まない」
「強情な……」

 ハンドルを握っていなければ額に手でも当てていただろう彼が、ため息をつく。そうは言ったが、私もよくない飲み方は当分控えるつもりだった。ただそれを喜ばれると反発したくなるだけで。子どもか? 私は自分の立場をもう少しわきまえた方がいい。多分、こういうのがよくないのだ。

「あー、だから、そうじゃなくて。なんていうか……」
「ん?」
「あ、甘え……過ぎてた、から……」
「そう気に負わずともいい。言っただろう、私の独断だったと」
「それはそうなんだけど、元凶の自覚はあるよ。悪かったと思ってる、ごめんなさい」
「君が殊勝なのは大変結構。しかし超人気ヒーローである以上、多少のゴシップは何をしてもついてくるものだ」
「……うん」
「そもそも、ヒーローとして不誠実な真似をしているわけでもない。正しく活動していれば、自ずと信頼はついてくる」

 正論だった。慰めではなく、事実として語っているのだろう。ならばこれ以上、私がなにか言ってもくどいだけだ。私にできることと言えば、あとは自分の反省に徹することだろう。大変情けない。無責任にも彼の言葉に幾分気が抜けてしまった私は、シートに体重を預けた。まだ台無しになってはいないということなのだろうが、台無しになってしまった方がよかったのではないだろうか。彼の立場としては。

「まあ、次に私の家に来る機会があれば、それなりの覚悟をしてもらう必要があるが」
「はっ?! あっ、いや、そうだね。今度はどんな撮り方されるかわからないし」

 大きなカーブに差し掛かり、ぼんやりしながら身体を傾けていたところで、彼の言葉に驚いて姿勢を正す。今のはなんて返すのが正解なんだ。どちらの意味だなんて訊けるわけがない。なにかあるとか、ないとか。それはあくまでこないだの話だし、あれも正解がわからないし。いやでも、自意識が過剰だと思われても嫌だ。反応としては妥当だと思いたい。
 スモークに霞む外の景色をひたすらに見つめていると、やがて駐車場に辿り着いたようだった。
 シートベルトを外して服を整えていると、先に降りた彼が助手席のドアを開ける。

「思っていたが、君は迂闊すぎる。男の車になんて軽々しく乗るものじゃない」
「今言う?!」
「今だからだよ。ほら、降りなさい」

 流されているとは思うが、どこが終着なのかもわからない。差し出された彼の手をとって車を降りる。





「からかわれてるんじゃないですか? 普通に考えて」
「そうなんだよね」
さんチョロいですし」
「そうなんだよね」

 煙が恋しくなるが、彼女にクサーいなどと言われたらと思うとポケットからそれを取り出す気にはなれなかった。
 ヒーロー御用達個室居酒屋、と言うと大袈裟だが、それなりにプライバシーが保たれ、従業員の教育が行き届いているので重宝している店である。超新星の如くデビューし、抜群のアイドル性で一気にファンを獲得した彼女だが、それに比例してマナーのなっていない人間も多い。ファンマナーなどは活躍歴の長さやヒーロー本人の振る舞いによって次第に落ち着く、あるいは啓発されるのが常であるが、若い彼女は良くも悪くも人気に地位を左右されやすく、サービスに依ってしまう。さらに言えば調子にも乗りやすいので、環境には配慮が必要である。
 美貌を覆うマスクを外した彼女が、営業外の些かだらしのない表情でポテトを囓る。

「でも、ベストジーニストさんってそう言うタイプでもないですよね」
「誰もベストジーニストさんの話なんて」
「そう言うのいいですって。年上のそう言うとこ見せられるのってキツいし」

 キツい。名前を伏せていたのは気恥ずかしさもあるが、個室とは言え不用意に彼の名を出したくなかったと言うのもある。私だって決して女子高生のような気分で、知り合いことなんだけど、などと話し出したわけではないのだ。そもそも話したかったわけでもない。当然伏せるべきところは伏せたものの、彼女の調子に乗せられて色々と吐いてしまった。当の本人は乗せてきたわりに、やけに反応が冷たい。ギャルは飽きるのが早い。

「だってぇ、折角奢ってもらえる上にちやほやしてもらえると思って来たのに、さんが他の男の話とかするからぁ」
「せっついてきたのレディじゃん」
「それはそれ、これはこれ」
「勝手な女だな……」
「好きですよね?」

 もちろん私は彼女のことが好きだし、彼女を撮るのも好きだ。なにせ彼女の学生時代からチェックしていたし、サイドキックの頃には声をかけていた。完成されたモデルを撮るのもいいが、粗削りの新人を見守るのもまた違ったよさがあるものだ。性格は少々ゲンキンなところはあるが可愛げがあり、友人として付き合いやすいし、あと顔が好き。しかしそれはそれ、これはこれ。悪びれずローストビーフを口に含む彼女に恨めしげな視線を送る。まあ、と彼女が言う。

「それこそ普通に考えたら、さんに気があるんでしょう」
「気が……、いや、私も気に入られてない訳じゃないとは思うけどね。結構構ってもらってるし」
「じゃ、いいじゃないですか」
「好きとかってちがくない?」
「なにがです?」
「問題が」
「うえぇ、面倒くさあ」
「おい」
「あ、桃パフェある。頼んでいいです?」
「いいよ。私、苺のやつ」
「じゃあシェアしましょ」

 パネルを操作する彼女を眺めつつ、最後の卵焼きを口に放り込んだ。

 問題が違う。違うよなあ、と思う。気があるとか好きだとか付き合いたいとか、そう言うものを一緒くたにできる歳でもない。そこに仕事相手だのファンだのまで乗っていて、さらには世間体もある。きっとどれが重くても、どれを抜き出しても今のバランスは崩れてしまう。私の気持ちはあまり動かしたくない。が、彼の方はやはりよくわからない。レディはああ言っていたし、私も浮き足立っていたが、よく考えたら彼は普通に心配してくれてるだけじゃないかな、とも思う。それが一番あり得そうで、楽。散々悩んでただの自意識過剰でした、というのも良くある話。みぞおちの辺りがぐるぐるし始めたので、煙草を灰皿に押し付けた。
 このご時世にしては喫煙者の多い業界ではあるが、それでも昨今の煽りを受けてか、スタジオのスモーキングルームもだいぶ寂しくなってしまった。人通りの少ない一角ではあるが、一人でガラス張りの室内にいると見世物みたいだ。何人いても見世物だが。ため息を吐く。
 残り少ないそれをもう一本取り出して火を点け、どうしても溜まりがちなスマホの通知をいくつか解消していると、角を曲がってくる人影が視界の端に入る。お仲間かと思って顔を上げれば、予想外の顔に吸った煙が行き場を失った。噎せそうになる胸をなんとか押さえつけて、殊更ゆっくり煙を吐き出す。驚きはしたが、この建物は撮影以外にも打ち合わせやインタビューにも使われているので、彼がいるのは珍しいことではない。ないが、先には倉庫くらいしかないこの通路にいったい何のようがあるというのか。いつまでも見ているのもまずいので、再び液晶に視線を落とす。彼が倉庫に用があるはずもないのでやはり当然だが、通りすぎる気配がない。悟られないよう低く顔を上げれば、向かいのカップ式自販機の前に立っているのが確認できた。喫煙者がついでに使う程度の自販機なんて粗悪品でいいだろうとばかりに備え付けられた、他よりグレードの劣るそれである。彼の舌に合うはずもない。出てきたカップに口付けた彼は案の定、不自然に手を止めた。まあそうだろう。面白いな。なんでこんなところまで来て不味いコーヒーを飲んでいるんだろう、このひと。
 気づけば指の間では葉が燃え尽きていた。退室しようか迷っているうちに彼のスマホに通話が入ったようで、どうしたものかと考える。今出ていくべきか。それも避けているみたいでアレだろうか。燃え殻を灰皿に放り込んで顔をあげると、ふと彼と目が合う。明白なアイコンタクトに動きを制されて、私の背中は再び壁に吸い寄せられた。なんなんだ、本当に。突っ立ってるのも馬鹿らしいのでついでに煙草を咥える。そこにいろ、で意味があってなかったら馬鹿みたいなのだけれど。
 ぼんやりと肺を汚していると、私の方はあと半分と言ったところで彼の通話は終わってしまった。もったいないが残りを灰皿に押し付ける。彼の視線を感じる。だからガラスは嫌なんだ。見世物じゃないぞ。彼の隣に立ち、背中を壁に預けた。

「袴田くん、なにしてるの?」
「敬称が……、まあいい。君の顔を見にきた」
「え? 用があるのに目の前にいて声掛けてくれなかったの?」
「放っておいたらいつ出てくるのかと思って待っていた。やはり君の悪癖は少々問題があるな、自制した方がいい」
「……」
「悪い足だな」
「うそ、やだ、こんなことで個性使わないでよ!」
「こんなことで個性を使わせるんじゃない」
「わかったから、わかった、ごめんなさい、放して放して」

 軽く引いていた爪先が解放される。あんまりな言い様に彼のお高い靴を小突くくらいはしてもいいのではないかと構えていたそれである。糸がほどける感覚に、足首がぞわぞわする。ひどい。かわいらしい反発心に対してわりに合わない仕打ちだ。ヒーローが個性を使って一般人を拘束していいのか。言わないけど。反省していないのを悟ったのか彼がため息を吐くが、それ以上のお咎めはなかった。

「喫煙が法に触れる行いではない以上、君の嗜好を無理に矯正するつもりはない。が、際限なく過剰に摂取し続けるその悪癖は目に余る」
「……」
「そう身構えなくていい、無理に矯正するつもりはないと言っただろう。もっとも君がそれを望むなら、こちらとしてもやぶさかでもないが」
「望まないから、ほんと」

 私が煙草を止めさせてくださいと言えば止めさせるということか? 絶対に頼まないが。支配欲やサディズム故でないのが逆に恐ろしい。まだ直接的に止めろと言われる方が理解できる。どちらにしろ止めるつもりは今のところ毛頭ないが。このまま続けていても話題の風向きが完全に私にとって不利なので、「そう言えば」と強引に切り上げた。

「よくここがわかったね」
「ああ、打ち合わせのついでに聞いた」
「連絡くれればいいのに。で、結局なんの用なんだっけ」
「三週間ほど日本を離れるから、その前に顔を見られればと思ってね」
「……ロケ? だいぶ長い気がするけど」
「それもあるが、メインはあちらのヒーローの視察と交流、最新型のサポーターのモニタリングだよ」
「うわ、お疲れさま。ヒーローは忙しいね」
「そうでもないさ」

 そう言う彼に、私は曖昧に頷いた。三週間、彼の担当地区に住む人間にとっては少々不安だろう。優秀なサイドキックも残るし、隣接地区のヒーローが担当区域を広げて対応すると言っても、支持率の高いヒーローはいるだけで強い犯罪抑止にもなる。彼の不在の影響は何らかの形で現れてしまうだろう。モデル活動だけでなく公務を含むなら仕方ない話なのかもしれないけれど。私の方はと言えば住居は彼の担当地区ではないし、三週間くらい会わないことは普通にあるので、生活に影響が出ることは恐らくない。ただ、なんと言うか、予告されてしまうと妙に心細い。気がする。気がするだけだ。

「まあ、私が心配とかするまでもないんだろうけど、気を付けてね。お土産よろしく」
「ああ、君もくれぐれも羽目を外さないように」
「はいはい、いってらっしゃい」
「まったく、君は……」

 それ以上なにか言う暇はなかったのだろう、彼が壁に寄せていた重心を離した。私も次の仕事にちょうどいい時間だったので、エレベーターまで隣り合って歩く。「下まで見送りはできないけど」「問題ないよ、いってくる」「うん、じゃあまた」。簡単な別れの後に降りるエレベーターを見送って、上階行きのボタンを押した。到着階を示すランプが一階に辿り着いたことを知らせ、また徐々に昇ってくる。
 羽目を外さないように。それを言いにわざわざ来たんだとしたら、やはり私は相当彼に心配されているのだろう。コーヒー買っておけばよかったな、と思いながら到着したエレベーターに乗り込む。普通に考えたら気があるんでしょう。私も普通に考えたらそう思うよ、レディ。でも今のところやけに心配されているだけだし、袴田くんは普通ではない。彼はヒーローらしいヒーローで、私はヒーローの考えていることはやっぱりよくわからない。レディに聞いてみてもタイプが違いすぎる。どのみち三週間、彼はいない。三週間考えたくらいでは、少しもわかる気がしない。



2020.2