ゆりかごのような

 いつもより肌触りのいいシーツに頬を寄せる。滑らかなそれが名残惜しく、もう一度まぶたを下ろす。小鳥たちが鳴いて、森がさざめく声がする。北の国の朝ははやくて、美しい。ピンとはりつめていて、冷たく清潔で、肺を洗う。だからこれは、この上なくここちよい目覚めのはずだ。身体を起こした私は眠る彼を見下ろして、その胸が上下する数を数える。五つほど。彼が目を覚まさないことを確認すると私は静かにベッドを出た。指をひと振りで身なりを整え、もうひと振りで散らかした洋服をトランク・ケースに放り込む。
 彼の寝室は広い。寝室だけではない、この城はどこを見ても広く壮麗だ。これだけ堂々としておきながら嫌味のひとつも感じさせないのだからずるい。住処が大きいことが羨ましいとは、別に思わないけれど。
 なんでも入ってなんでも出せる私だけのトランクからサイフォンとコーヒーの粉を取り出して、細工が瀟洒なひとつ足のテーブルに置いた。呪文を唱えるまでもなく、フラスコを振れば湯が沸き上がるし、アルコール・ランプをひと撫ですれば火がともる。私たちは面倒な役目を負う代わりに、色々な特権を与えられている。カップの一杯をとびきり上等なコーヒーで満たすことなんて、わざわざ過程を踏まなくても一瞬でできるのに、それでもこの行程を辿るのはただ好ましいからだ。ガラスのなかを立ち上る小さな泡を眺めて、自らの手で撹拌し、漂う香りに目を伏せる。心と体を使うのが大好きな私たちは、こうした些細な手間をわざわざ愛することで、永い生を慰める。
 フラスコのなかをヘラでくるくると円を描いて、私はいまだ眠る彼を見た。脱力した彼はいつもより幾分か厳めしさが抜けて、いとけない印象さえある。昨晩あの長く美しい髪をといたのは私だった。不思議。私はいつも、はじめてのことのように不思議に思うのだ。どうしてだろう。直裁的ではないにしろ迫っているのは私なのでどうしても何もないのだが、だからこそ不透明だった。なにしろ彼には私を抱く必要も、理由もない。普通の男が相手であるならいちいち疑問にもなりはしないけれど、なんと言っても相手はこの世で一等特別な男であるので。だから私は、彼が寿命が自分の半分以下の虫ケラにわざわざ応える意図について、しばしば頭を悩ませる。寿命が自分の半分以下の虫ケラは以前どこかの魔法使いから言われた悪口で、私はいまだに根に持っている。事実だからだ。アルコール・ランプの火を消す。ここ数百年かけて、多少のわがままを時々、本当に時々僅かな隙にねじ込めるような関係を作ってきたつもりだが、自分が特別許されているとはまったく思わない。彼は特別な意味での好意を私に向けることはないし、私を欲することもないだろう。そんな風に思い上がる隙もない。だからと言って同情や慰めなんていう無粋なセンチメンタルは、彼からもっとも遠い。答えはでない、彼に尋ねない限り。そしてその予定もない。この疑問について考えるとき、私はいつも凍える森のなかを歩いているかのような気分になる。つまり、冷たく先が見えずかつ軽やかで、とびきりうるわしいということ。十分に抽出されたそれをカップに注ぎながら、もしかしてこれかな、なんてぼんやりと思った。
 些細な手間を、わざわざ。
 わざわざ、彼が? 冗談。だからやっぱり答えのでない問いに胸がときめく。
 身じろぐ気配の後、彼が起き上がる。怜悧な瞳がこちらを覗く。
「寝起きのあなたってね、瞳が苺のジャムみたいに蕩けていてかわいいの、ご存じ?」
「……そんなことは知らない」
 幾分ゆっくりとした話し方と掠れた声が艶っぽいのに不服そうな顔が拗ねているようで、胸を擽られる。「ねえ、おはよう。あなたもいかがかしら」「ああ」。二杯分用意していたそれの残りをカップに注ぐ。それから不揃いの水晶片のようなシュガーもいくつか。夢のようだと思い、そんな風に思う自分がおかしかった。目の前に座る、もう普段の通りストイックな衣装に身を包んでいる彼を見て、私は小さく落胆の声をこぼす。
「あなたの髪を結って差し上げたかったのに」
「その必要はない。が、何故」
「されるがままのあなたが素敵だから」
「……」
「怒った?」
「怒ってはいない」
 私が差し出したカップに彼が口づける。
「……おまえの言うことが不可解だと思っただけだ」
 私は笑う。恋のような軽快さに胸を弾ませて。
「うれしい」



2020.1