ああ、群青

 じゃあまた、といわれるたびに安堵していたことを、君は知っているだろうか。



 おおよそ一般的なセーラー服にもとっくに袖を通し慣れて、ブレザーの感触を忘れて久しく、そろそろはじめての夏休みも終わる。新学期に心踊らせるほどでもなく、とはいえ今さら特別不安もなく、部活以外では大概ぼんやりと過ごしていた時のことだった。「姉貴、電話」と無遠慮に部屋のドアを開けた弟に、文句を言うのも諦めて聞く。

「だれ」
「名前忘れた。中学がなんとかって」
「ええ……」

 携帯電話を持ちはじめてからは、近しい人との連絡はそちらにくるようになっていたため、家の固定電話に連絡がくることは稀になっていた。中学の同級生か先生か。同窓会にはまだ早いなと思いながら、受話器をとる。

「はい、です」
「こんにちは、幸村精市です」

 何かの間違いかと思った。突然ごめんね、俺のこと覚えてるかなと続ける彼に、うんとかはいとかそんな返事をした。気がする。一瞬で混乱の仕上がった私に、幸村くんは気付いているのかいないのか、涼しげな声が用件を紡いだ。

さん、今週末は空いてるかな」
「え、うん、空いてる」
「よかった。もしよければ俺と会って欲しいんだ」
「え?」
「だめかな」
「だめじゃない」
「ありがとう」

 それじゃあと彼が指定したのは、母校から数駅移動した、ここら一体では一番栄えた駅だった。現実味のないまま彼の言葉を何度か了承し、普段からそうしてるみたいに簡単な挨拶を交わして受話器を置いた。本当に幸村くんだったのだろうか。どうして。残された頼りないメモだけが、一連の件が現実であったことを証明していた。



 幸村精市という人のことを、あの真っ青な初夏の日までのことを、一度だって忘れたことはない。セーラー服をまとい慣れた今でさえ。

 あの幸村精市が入院したというニュースが、一部の女生徒たちのゴシップとして語られることも少なくなってしばらく。どこか頼りない担任が、職員会議のために入院中の彼に一ヶ月分のプリントを届けられないからと、学級委員の貧乏くじを引いていた私に一回限りのその役目を命じたのが最初だった。職権の域を脱しているのではないかと当時でも疑わしかったが、それを指摘せず引き受けた。
 私は放課後、その足を行きなれない大きな病院に向けた。一階の受け付け横の花屋を見て、そういえば見舞いと言えば花のひとつでも持参するべきかと花瓶を必要としないコールドフラワーの小さな花束を購入したりして。
 大きな個室を訪れると、ベッドから姿勢よく上半身を起こしていた彼が、少しだけ驚いているようだったのを覚えている。追うように入室してきた若い看護師が担任からの言伝てを伝えにきて、やっと彼は納得したように見えた。警戒されてたと思うし、今考えてもそれは多分正しい。学校では幸村くんの見舞いを自粛するようにと暗に通達があったくらいなので。
 それから彼にプリントと花を渡し、少し雑談をした。当たり障りのないお手本のような話題のそのひとつが、彼の先程まで読んでいたらしい小説の話だった。
 そういえばその最新刊、学校の図書館にも入ったみたい、よければ今度借りてこようか。言ってしまった後に、目の前にいるのが自分の友人でもなんでもないことに気づいた。友人でもなんでもない、あの幸村精市その人である。たいして親しくもない上に、熱心なファンまでいる幸村くん。過失だ。
 だから訂正して帰ろうと口を開く前に、お願いしてもいいかい、と彼に言われて、こちらが言い出したくせに私はひどく驚いたのだ。思わず見つめた彼の顔も、何故か不思議そうな色を浮かべていた。

 それから、月に二、三回ほど、彼の病室に通った。それは本を届けにいったり、定期試験でどんな内容が出たと報告しに行ったりと口実は毎回変わったし、私が提案することもあれば、意外なことに彼から頼まれることもあった。それでも長居すれば負担がかかることはわかっていたので滞在時間はそれほどではなかったし、彼の調子の悪い日には会わずに帰ったりもしたので、やはり時間に換算するとそれほど長く過ごしたわけでもなかったように思う。

 そんなことが、初夏の頃まで続いた。今までありがとう、もうここには来ない方がいい。手術の決まった彼が、そう告げるまで。



「久しぶり、さん」
 五分前に待ち合わせ場所につくと、彼はもうそこにいた。男子の私服については詳しくないけれど、清潔感があって、彼によく似合っていると月並みな感想を抱いた。

「待たせちゃったね、ごめんなさい」
「俺も今着いたところだから。どこか行きたいところはある? なければ俺の行きたいところでいいかな」
「うん」

 少し歩くけど、と彼に着いていった先は期間ごとに作品を入れ換えて展示している、小さな美術館だった。驚いたのは、それが私が好んでいる絵本作家が取り上げられているものであったことだ。油絵のような深みのあるタッチと子供向けらしからぬ不条理な展開で、評価が極端に二分されている、つまり一般受けしない作風の作家だった。私がまじまじと看板を見つめている間にチケットを購入していた彼から、その一枚が手渡される。お金を渡そうとすれば、やんわりと辞退された。

「もしかして、もう見に来てた?」
「ううん、開いてるのも今知った」
「そう、よかった」
「私、この作家さん好きなんだ」
「うん」
「……もしかして前に話したかな」
さんに教えてもらってから気になってたんだ」

 少し驚いたけれど、彼が私の好きなものを覚えていてくれたことは、素直に私を喜ばせた。あの日のなかに、彼に残るものがあったことをうれしいと思う。これはいささか単純すぎるかもしれない。このくらいで浮き足立つなんて、中学生みたいだ。
 それから私たちは並んで作品をまわった。時間はひどくゆっくりと過ぎているようだった。隣に立つ彼を見て思う。彼はこんなに背が高かっただろうか。



 幸村くんが退院してから卒業式まで、ついぞ私たちは言葉を交わすことはなかった。私がクラスメイトに紛れて退院おめでとうと言って、彼もそれにおめでとうとは返して、それだけ。でもじゅうぶんだった。それだけでよかった。彼は生きていたから。
 だって好きだった。私は幸村くんのことが好きだった。それは多くの女の子が一度は彼に向けたような、多分ありふれた好意だったのだろう。少し違うのは、親切心で下心を覆っていた後ろめたさから、長いことそれを直視できなかったこと。それでも、もう彼に会うこともないのだろうと予感してはじめて、私は彼に恋をすることができたから。だから、ぜんぶいつか忘れていくのだろうと思っていた。

 声をあげて笑う彼を可愛らしいと思ったことも、同じ本を読んでいたことも、コートに戻った彼の姿も、ぜんぶ。
 ぜんぶきれいな思い出になるはずだった。できていると思っていた、今日までは。



「なに考えてるの?」

 館内を満足するまで見て回ったあと、私たちは併設されたカフェで話をした。多くは互いの近況のことで、幸村くんがこの間まで行っていた合宿の話がちょうど一段落ついた頃だった。彼は自分の成果をアピールするような話はしなかったが、きっとそこでも活躍したのだろうことは想像に難くない。

「幸村くんのこと」
「本当? うれしいよ」
「幸村くんといて幸村くん以外のことを考えられる女の子、いないよ、きっと」
「もしかして口説いてもらってるのかな、俺は」
「……言われ慣れてるでしょう?」
「うん」
「うん……」
「でも君にそうしてほしかったから」

 カップを片手にいたずらっぽく笑う幸村くんが恨めしい。こんな風に少しからかわれただけで動揺してしまう私も。言葉がみつからずカップの柄をもてあそぶ私をど思ったのか、幸村くんは「ごめんね、今のはずるかった」とこれまでよりも静かな声で言った。

「ずるい?」
「まず君に伝えなきゃいけないことがあるんだ」
「……今日は、そのためだったのかな」
「うん、来てくれてありがとう」

 幸村くんの視線は曇りなく私を捕らえていて、私はあの頃のいやしい下心を見透かされているのではないかと、急に怖くなった。けれども、逸らすことなんてできなくて、ただ自分がどんな顔をしているのかもわからないまま、彼を見ていた。

「ずっと君に会いたかった。今日はほんとうに、ただそれだけのために来てもらったんだ」
「……どうして」
「本当は伝えるべきじゃないってわかってた。俺の都合で君を繋ぎ止めて、遠ざけたんだ。もう君を振り回すべきじゃないって、諦めたつもりでいた」
「……」
「でも俺はそんなに潔い人間にはなれなかったみたいだ。君に軽蔑されても、どうしてももう一度会いたいと思ったら、我慢できなかった」
「軽蔑なんて、できない」
「うん、君はそう言ってくれるって、わかってて呼び出したんだ。ごめんね」

 幸村くんが言っていることのほとんどを、私はわかっていないような気がした。だって信じられない。それでもとにかく、違うんだと伝えなくては、と思った。私の方がずっと軽蔑されても仕方がなくて、幸村くんはなにも悪くないんだって。
 幸村くんの目を見ようとして失敗した私の視線は、彼の胸元辺りに止まった。

「私、幸村くんが思ってくれてるほどいい人じゃないよ。そんな風に言ってもらえる資格、ほんとはない。だから、その、幸村くんがあのときのことで罪悪感を感じているってことなら、そんな必要ないんだよ」

 私が言葉を選びながら話すのを、幸村くんは黙って聞いていてくれた。

「幸村くんが断らないのをいいことに、不誠実な想いを抱いたまま会いに行って、謝らなきゃいけないのは私の方。だから、もし許してくれるなら、幸村くんの重荷になるようなことは忘れてほしい」
「……だめだよ。俺を遠ざけたいなら、ちゃんと嫌いだって言わないと」
「そんなこと」
「君にそんな顔されたら、諦めなくていいのかなって期待する」

 どんな顔なんだろう、と思う前にもう冷たいカップを包む手を、幸村くんの節ばった手が覆った。

「俺も君が思うほどいい人じゃないんだ」
「幸村くん」

 何て答えるのが正解なのかわからないまま彼の名前を呼ぶと、幸村くんは「そろそろ出ようか、送るよ」と囁いて、手を離した。私はそれに頷いて、ぼんやりとしたまま荷物を取った。 

 店を出てから、私たちは言葉少なに並んで歩いた。私が先程の話題に触れられず、他愛ない話をするのに幸村くんは付き合ってくれた。こんなに暗くなってたなんて、とかなんとかそんな他愛のない話を引き伸ばす私を、幸村くんがどう思っていたのかはわからない。なんだかんだと言っているうちに最寄り駅まで送ってもらってしまったが、私が自宅の近くの公園で「ここで大丈夫」と言うと、すんなり了承された。

「今日はありがとう、幸村くん」
「俺の方こそ、楽しかったよ。もしまた会ってもいいと思ったら、これに連絡して」

 幸村くんが取り出した名刺大のカードにさらさらとアドレスを書くのを、スマートだなと思いながら見ていると、彼は別のことを想定したのか「ほんとは俺から誘うのがマナーなんだろうけどね」と苦笑した。否定しようと口を開く前に「でも」と幸村くんが続ける。

「もし次会えたら俺も本気だすから、覚悟してね」

 本気ってなに。いたずらっぽい笑顔にたいそう動揺してしまった私を、幸村くんが嬉しそうに見ているのを見て、彼がいい人じゃないらしいことを思い出した。

「じゃあ、また」
「うん、また」

 また、じゃない。露骨に失言という顔をしてしまった私を見て、とうとう幸村くんが小さく吹き出す。昔みたいに声をあげて笑う彼を、私はやっぱりかわいいと思ってしまった。ああどうしよう、きっと彼の望む通りになってしまう。



企画/運命 2018.5