topsy turvy lovely fairy tail
もう怖くないのか、と聞かれたら否定することは出来ない。二カ月に一度くらい、やけに早く目が覚めて、ぼうっとした頭で急に不安になることがある。そういう朝は、早く朝支度をしなければと思いながら、彼が起きるのをただ隣で待つ。昔は毎日で、それが一カ月に一度になって、今は二カ月に一度くらいになった。多分これからはもっと減るのだろう。そして今日はといえば幸い、彼の目が覚めるのを、朝食を作りながら待つことができる日だった。
ジャガイモのポタージュの味見を済ませた頃。腰のあたりに感じる衝撃に軽くよろめけば、幼い笑い声がはじける。朝食を盛り付ける手を止めて振り返り、その柔らかい身体を受け止めると、彼女は私を笑顔のまま見上げた。おはようママ、と言う天使を抱きしめる。親馬鹿な自覚はあったが、彼も大概なので良しとしている。
「おはようございます、レミリア。でもキッチンにいるときは危ないので不意打ち禁止」
「きんし?」
「しちゃだめってことですよ」
「んー」
三歳になったばかりの娘は、私の腰のあたりにその小さな頭を押し付けながら返事をする。恐らくこれは納得していないのでまたするだろうな、と思うがそれはこちらが気を付けていればいいだろう。もしかしたら少し、ほんの少し甘やかし過ぎかもしれない。
「レミリアにお仕事があります」
「はあい」
「パパと遊んであげてきてください。ご飯冷めちゃいますから」
「いいよ!」
小動物のようにすばしっこくキッチンを出ていくその姿を見送る。パパー! という叫び声の後、ぐえっと呻く声。何があったかは大体想像ができる。
プレートをテーブルに運びながら待っていると、娘を抱えた彼がダイニングにやって来た。はしゃぐその子と裏腹に、彼は容赦ねえとつぶやきながら腹部を擦っている。
「おはようございます、レオリオ」
「はよ。朝から死にかけたぜ」
「だらしないですよ」
「勘弁してくれ」
まだ眠そうな彼のキスを額で受け止め、今度はコーヒーを入れる。毎朝のことだし、いい加減慣れたものだけれど、いちいち嬉しく感じてしまうのもどうなのだろう。娘の分はオレンジジュースで、パックのそれはキャラクターのイラストが描かれた娘のお気に入りである。彼がストローをさしてあげると、彼女はそれだけで大層喜んだ。
「オムライス?」
「これはオムレツ。ママのご飯は美味しいな、レミリア」
「ママこれ美味しい!」
「よかったですね、レミリア」
遠慮なくケチャップを付けた彼女の口元を、肌を傷つけないように拭う。食べ方は豪快だが、スプーンももうだいぶ上手く扱えるようになってきた。手先の器用さは彼に似たのかも知れない。容姿は私に似ていると彼は言うけれど、性質は彼に似たところが大きいと、私は思っている。私に似なくてよかった、と彼に言うと怒られるけれど。
「ねえあなた、明日も休みでしたよね」
「おう、せっかくだしどっか行くか」
「流石あなた。今日はお出かけですって、レミリア」
歓声を上げて喜ぶ娘の頭を、彼の手が撫でた。
「水族館が良いと思うんです」
娘の髪は柔らかく艶やかだ。彼が言うには私に似たらしいが、私の髪はこんなに指通りも艶も良くない。真ん丸い頭から一房掬って、他から掬ったそれと絡める。これも随分と練習したものだが、編み込みは未だ極めるに至らない。
「水族館?」
いつものスーツではなく、濃い色のダブルジャケットと薄色のスリムパンツを幾分ラフに着こなした彼が、ソファに座る私の隣に腰を下ろした。彼の私服姿が好きだ。一日ゆっくり過ごせる日に見ることができる格好だから、というのは気付かれるまで彼には言わないことにしている。
「最近この子がご執心なんですよ」
「へえ、どの魚が好きなんだ?」
彼が問うと娘は、「魚じゃないの」と得意げに答えた。一緒に図鑑を見ながら、これは魚ではなく動物なんですよ、と教えたことを思い出す。知ったばかりの知識を、とっておきを披露するように胸を張る幼さが愛おしい。ついでにちょっと調子に乗りやすいところは彼譲りだなと思う。
「イルカ! ねえパパ、イルカ見るの?」
「ああ、いくらでも見せてやるぞ」
「やったあ!」
「しっかしやっぱ似るもんだな」
「なにがです?」
「お前も昔よく行きたがったろ、水族館。イルカも見たし」
そう言われて、思い出す。彼とまだ結婚する前のことだ。落ち着くんです、とか言ったような気がする。イルカ・ショー。まあ、嫌いではないですけど。今更時効だろうと私は告げた。
「口実だったんですよ、そんなとこばかり鈍いんですから」
「……お前なあ」
「あ、ちょっと」
目を閉じる間もなかった。流石にもう驚きはしないけれど。けれど、それとこれとは話がちがう。ちがうと思う、と異議を申し立てたい。我が家は不意打ち禁止なのだ。娘が振り返ってしまう。髪を結ってる最中だからあなたもちょっと持ってください。
「……」
「……いい加減慣れろよ」
「……あなただって」
「そりゃお前が照れるから」
照れてませんと返そうとした矢先に、娘がひょいと膝に上ってくる。最近は抱き上げるのも難しくなってきた娘の身体は、それでもまだまだ不安になるくらい柔らかい。わたしも! と言って抱きついてくる娘が頬にキスを落としてくれたので、私も彼女のまろい曲線を描くそこに唇で軽く触れた。
「俺には?」
「えー、しかたないですねー」
初めての反応だ。気取ったように発音した娘は、私の膝の上で伸びあがって、彼の頬にキスを送る。
「今の絶対お前の真似だぞ」
「……そうですか?」
仕方ないですね。まあ言うかもしれない。彼にもたれかかりながら、またはしゃぎ始めてしまった娘の腹に手をまわした。伝わる鼓動は小動物のように忙しない。この子が私を見て育っているのかと思うと、やはり不安が募る。私なんかに似てしまったら、ろくな人間にならないのではないか。
どんなことからもこの幸せを守りたい、とか。彼と結婚してから、この子が生まれてから、そんなことを思ってばかりだった。だから時折怖くなる。昔のような方法で守り通せるだけの力を、私はもう持っていない。なのに、それでも彼が大丈夫だというから、私は安心してしまうのだ。そういうふうになってしまった。困ってしまう。五年前なら、そんな人間はただの馬鹿だと思っていたのに。保障もないのに、大丈夫とかなんとか。
「何考えてんだ」
「あなたもそのうちこの子に洗濯物一緒にしないでって言われるようになるんだろうなって」
「ひっでえ」
そんなことないよなレミリアと尋ねられた娘は、そんな日が来ることを想像してもいないだろう。私にだって、本当にそんな日が来るのかもわからない。十年先のことなんて、まだ想像もできなくて当然だ。五年前だって、まさかこんなに馬鹿になるなんて考えもしなかったのだから。
「まあ、大丈夫ですよ」
「お前、ひとごとだと思って」
本気で落ち込みかけている彼に思わず吹き出してしまう。綺麗に出来上がった可愛い娘のヘアスタイルに満足し、行きますよと彼を促した。
2017.1