陰鬱な幻

 念能力ではないのだと聞いている。私には念能力が使えないので、それが一体どういうものなのか、どうしたら使えるのかはわからないが、少なくとも私のこれは念能力ではないのだそうだ。だったら何だというのだろう。お前のその体質、と呼んでいたのはあの頭のいい男だったろうか。全く曖昧なことを言ってくれる。眼下に広がる光景は、やはりいつも通り何も教えてくれないので、私の神経は少しささくれ立った。それでも、これのおかげで生計を立てられるのだから、多少は構わないのだろう。
 依頼人へごく簡単に完遂の連絡を入れ、ついでに今日この後の予定を確認した。そんなことをしなくても覚えてはいるのだが、こればかりは気分とでも言うしかない。要は、私は浮足立っているのだった。

 「いらっしゃいませ、こんばんは」
 「うん、久しぶり」
 「お久しぶりです。夕食にしますか」
 「そうだね、お腹すいちゃった」
 この人でも空腹になることがあるのだという事実は、私に小さな驚きをもたらした。しかしそれなら好都合と、用意していたクリームパスタとスープを温めるために、私は彼に背を向ける。
 胸の辺りがそわそわして落ち着かない。私の挙動は、不自然ではないだろうか。早々に背を向けてしまったのは、いささか愛想はないが正解かも知れなかった。しかし、会った瞬間と言うのは、いつもどんな顔をしたらいいのかわからなくて困る。決して、嫌な気分ではないのだけれど。
 そんなことを考えていたものだから、彼の指が私の髪を掠めたときはどきりとしてしまった。
 「髪、濡れてる」
 「シャワーを浴びていましたから。仕事を終えたあとだったので」
 「ふうん。早く辞めればいいのに」
 「またそういうことを仰る」
 「結婚しても殺しは続けられるよ」
 「問題はそこではありません。ほら、すぐに用意いたしますから座って待っていてください、イルミ」
 わかったよ、と彼は肩をすくめると大人しく定位置についた。古いコンロは点きが悪く、三度目の挑戦でやっと青白い火をあげる。まだ温まる気配のない鍋を、ぼんやりと眺めた。
 別に殺しが好きなわけではない。そもそも仕事中のことはあまり覚えていないので、殺してるという感覚も希薄だ。好きで始めた仕事でもない。しかし、仕事をしているからこその付き合いというものもある。今の生活を捨てるのも決心のいることだし、なにより捨てたあとに待っているのがあのゾルディックの人間としての生き方だ。結婚しようと言われて、すぐにはいと頷くことはできないのは、致し方ないことだろう。婚約者なのにという申し訳なさは、勿論なくはないのだが。ただ、彼が時折急かしながらも私の返事を待っていてくれるということは、やはり嬉しく思ってしまうのだ。
 温まったそれらを盛り付けながら思い出す。そういえばゾルディック家では食事に毒を盛るのが通例だったか。もちろんこの台所には毒など置いていない。どうぞと並べれば、手こそ合わせないがいただきますと返ってきて、律儀というよりは育ちの問題だろうなと思った。
 「スープ、少し味が薄いかもしれません」
 「そう、よくわからないけど。美味しいんじゃない?」
 「取って付けたように……」
 「強いていうなら、オリーブがすごい入ってる」
 「お好きかと。違いましたっけ」
 「好きでもないし、嫌いでもないよ」
 「ん」
 言われてみれば、確かに彼に好き嫌いはないはずだ。毒を含めて。勘違いだったかと内心首を傾げている私の正面では、実際に彼が首を傾げていた。へえ、とこの場においては良くも悪くも無感動な彼の眼が私のそれを覗き込む。
 「もしかして、誰かと間違えてる?」
 「……少々お待ちください」
 「冗談だよ」
 彼は特に気分を害した様子もなく、パスタを巻いている。恐らく本当に気にしていないのだろう。そういう性質の人ではない。わかってはいても彼の冗談はたいていの場合体によろしくないので、是非とも遠慮してほしかった。輪切りのオリーブに歯を立てる。誰だったかな、と思う。
 「そう言えば、見たかった映画を借りてきたんです」
 「また?」
 後で見ましょうと私が言うと、いつも通り、感情がこもっているのだかいないのだか測りかねる肯定が返ってくるのだった。

 ふた昔以上前の、異国の映画だった。船から落ちてそれ以前の記憶を全て失ってしまう女性が主人公だ。画面の向こうでは、彼女がある男性にとんでもない嘘を吹き込まれている。
 「面白い? これ」
 「有名ですよ。少なくとも私は先の展開が気になっています」
 ふうん、と気のない返事が届く。しかし、なんだかんだで彼が最後まで隣で一緒に見てくれることは知っているし、全然関心がないようで突然ふとした瞬間に話題に出すことも、やはり知っている。ただ本当に突然なので、私はしばしば驚かされることになるのだ。それから少し嬉しくなる。
 「あ、退屈でしたら、デザートがあります」
 私は彼の返事を待たず、冷蔵庫に向かった。取り出したそれらのうちひとつを、プラスティック製の安っぽいスプーンと一緒に彼に手渡す。別にこんなもので彼の機嫌がよくなるわけもないことは分かっているので、これはただ私がこの時デザートの存在を思い出したというだけのことであった。
 「珍しいね」
 「なんだか気づいたら買ってしまっていて」
 へえ、と彼は手の中のそれをまじまじと眺めた。そんなに珍しいものだろうか。しかしお坊ちゃん育ちの彼には、こういうチープなものは逆に見慣れないものなのかも知れなかった。
 「いいや、俺の分はあげる」
 「ええ……」
 買っておいてと自分でも思うが、私はあまり甘いものが得意ではない。仕方なしに、まずは自分の分のそれから片付けにかかる。パッケージを剥がすと、バニラとカラメルの香りが溢れた。スプーンの先が滑らかに沈んでいく。
 「こういうのが良いの?」
 「どういうのでしょうか?」
 「記憶喪失。なりたい?」
 「やめてくださいね」
 「そう」
 「理由を聞いてもよろしいですか?」
 「だって、結婚する気になるかもしれないでしょ」
 あれみたいに、と彼が指さす画面の先では、騙された先で甲斐甲斐しく偽りの主婦業に挑む女性の奮闘が映し出されていた。厳密に言えば、これは結婚ではない。
 「別にそんなことしなくても、結婚くらいいたしますよ」
 「そう? よかった」
 「まあそうですね、そのうちに」
 軽いため息が吐かれるとともに、肩が軽く触れ合う。彼の黒髪が私の頬に流れてきたので、軽く退けた。俺も結構気が長いよね、などとどの口が宣うのだろうか。あなたわりと堪え性ありませんよ。まあ悪いとは思っているのだけれど。けれど、私は何故かまだ頷けない。なかなかに幸せそうなあちらの彼女を見ながら、私は当面彼のご機嫌をとる方法を考えた。いや、なんとかなるだろう。なにせ夜はとても長い。
 よく知られたこの映画にはハッピーエンドが予定されているが、果たして。


 最寄りの駅の裏にある美術館が好きだ。その一階に構える喫茶店も。
 重厚な造りの扉をくぐれば、どこか甘くぼんやりとした匂いに満ちていた。美しく価値あるものの場所は、どこもこういう匂いをさせている気がする。平日のそこは人入りがまばらで、私は目当ての人物をすぐに探し出すことができた。喫茶店内であることを示す分厚い絨毯に踏みいれば、コーヒー豆を挽く香りが混ざる。私は目が合ったウェイターを呼んで、マンデリンとスコーンを頼んだ。ここのスコーンは少し変わっていて、私はそれも気に入っている。
 「こんにちは」
 「ああ」
 そこには邪魔になるような親しみはなく、ただそれが当然であるというような色だけを含んでいた。男は古い、恐らく革製の表紙の本を閉じると、やっと私に視線を向けた。
 注文の品を運んできてくれたウェイターが去るのを待って、振り込みを確認した旨を告げると、今度はまた仕事があると切り出される。渡されたカードには場所と時間だけが、存外と雑な字で簡素に走り書きされていた。御贔屓にしてくださってどうも。コーヒーに口付けると、酸味の少ないそれは期待通り舌を癒してくれる。
 「……構いませんが」
 「なにか?」
 「私のこの……、これは、それほど融通の利くものではありませんから、毎回ご希望通りにいくかは」
 「まあそれならそれでいいさ」
 「わかりました。当日は終了までお仲間含め遠くにいらっしゃって下さい」
 「ああ」
 手帳に予定を追加していると、男がさほど関心もなさそうに「吸わないのか」と尋ねてくる。
 「辞めました」
 「そうか」
 カチリ。顔をあげれば見慣れた銘柄の煙草に火をつける男の姿があった。私はそれがあったはずのポケットを確認する。ため息が漏れた。自然な仕草で差しだされた真新しいそれを大人しく咥え、火が点されるのを待つ。紫煙が肺を汚して、しばらくぶりの安っぽい充足感に浸らされた。
 「順調みたいだな、あいつとは」
 「もちろん」
 「でも依頼は受けるのか」
 「……」
 「こっちとしては助かるよ。イルミは結構がめついんだ。お前があの家に入ったらいくらとられるか」
 「しっかりしていると言って下さい」
 スコーンをひとつつまむ。口の中でオリーブの塩漬けが弾ける。これがここのスコーンの特徴だった。せっかくだから今は仕事中であろう彼にもいつかと思ったが、そういえばオリーブを好きなのは彼ではなかったことを思い出す。あれはよくなかった。
 「まあ、結婚すると自由に依頼を選べなくなってしまうことは、私も少し……、困ります。今まで散々好き勝手やってきましたから」
 「じゃあ、何故結婚を?」
 「何故って、愛していますし」
 彼を。言ってから思う。愛しているから結婚するなんて、以前までの私なら考えられなかったことだ。不都合をすべて飲み込んでまで。人を好きになるというのはこういうことなのだろうか。
 「……」
 以前とはいつだったか。いつって、彼と会うまでの。いや、彼を好きになるまでのだろうか。では、彼を好きになったのはいつからだった。というか、そもそも私は。
 「どうした」
 「……少し頭が」
 気にするようなことではない。人を好きになったタイミングなんて、そういつと言えるものではないのだろう。頭痛が引いていく。
 「失礼、問題ありません」
 「……あとの話は、なかを見て回りながらにでもするか」
 「いえ、お気遣いなら」
 「階段を上って左に掛かっている絵があるだろう」
 「私が来る前に見ていらしたんですか?」
 「いや、前に何度か」
 「私もここに来るのははじめてではありません。最近はご無沙汰でしたけれど」
 そうか、と頷いた男の視線は、静かに私に向けられていた。査定されているような落ちつかなさに、思わず目を背ける。普段は気にもしない沈黙が、今はどうしてか気まずい。
 「……あの絵なら、私も好きです」
 「盗もうかとも考えてたんだが」
 「やめてください」
 「と、言われてやめたよ。その時も」
 「珍しいこともあるものですね」
 そう言うと、男は少し笑ったようだった。今のは笑うところだったのだろうか。彼に次いで、居心地のいいソファから腰をあげる。
 「お前も欲しいものがあるなら盗ってやるぞ。有料だけど」
 「買うより高く付きませんか? それ」
 どうだかな、と私の先を歩く男の表情はうかがえなかった。欲しいものは特に思い当たらないが、一度くらいは何か依頼してみるのもいいかもしれない。
 曖昧に歩調を合わせつつ、階段は上がって、左へ。



2016.11