在りし胸の空洞

 ひぐらしが鳴いている。緑は生い茂り、蒸し蒸しとした空気がそこを取り囲む。
 男は汗を拭いながら、目指す。相棒の車を拝借して、わざわざこんな山くんだりまで来た。先日までのアスファルトの照り返しは息を潜めているものの、暑さに変わりはない。駐車場に転がる小さな砂利が歩きづらさに拍車をかける。

 彼女に会ったのは、いつだったか。彼女がまだ少女だった時だ。彼の国が秘匿しているお宝をいただくために、相棒が目をつけたところから端を発している。偶然というにはあまりにも良すぎたタイミングで、彼の国の王様から相棒宛に連絡があった。
「娘を助けてほしい」
 もっと頼るべきところがあったろうに、王様はこともあろうか、自分の国のお宝を盗もうという大泥棒に、自分の娘を助けてもらうことにしたのだ。これは面食らったと、男は当時のことを思い出して笑う。世話係も案外楽しいものだった。少女は男を「おじさま」と呼び、慕ってくれた。チェスの相手をした。相棒との冒険を語った。カプチーノを淹れた。銃を持たせた。頭を撫でた。世界に解き放つには、脆すぎて、お節介な性分が思わず出てきてしまうほどには、気にいっていたのだ。たった数週間だった穏やかなゆりかごの時間を昨日のことのように思い出す。

 息が上がる。気づけば目的地に到着していた。男は首元に手をかけ、ネクタイを少しずらした。極東のこういった場所は、いつだって圧巻だ。灰色の大きな石が、整理されて乱立している。同調圧力的な風土にあった、その几帳面さに嫌気が差して、世界を放浪する身になったが、死して尚その国民性を維持する力には圧倒される。
 嫌いではない。墓と言う文化は、世界共通とはいえ、この綿密性は関心に値する。さて、そこは、死後の住居である。
 男はある墓の前に立つ。墓には覚えのある名前が書いてある。いつだったか、対象者の墓を作って仕事をする殺し屋に狙われたことがあったが、これは所謂模倣犯なのだろう。それか、愉快犯だ。自分の名前が、墓に彫られるというのは、まぁ、なかなかないだろうが、こうも立て続くと面白くなってしまう。クックックと笑い声が漏れる。面白いことをしやがる。
「出てきな、お嬢ちゃん」
 そろりと近くの雑木林から彼女が出てくる。ご丁寧に喪服を着ている。きらりと胸元が光った気がする。随分と成長した彼女だが、面影が綺麗に残っていた。夜を模したような髪、桜色の頬、サファイアのような深い青を瞳に宿して、嬉しそうに楽しそうに近寄ってくる。そういえば、こう言う顔をした時は何か悪戯を考えている時だった。
「おじさまって本当に律儀ね」
「性分なんだよ」
 自分の名前が書かれた墓に手持ちのウィスキーをかける。男が好きなピートの香りの濃いウィスキー。琥珀色は墓に色と鼻をつく匂いばかりを落とす。
 少女だった彼女は男と離れてから、この極東のある優しい夫婦のもとに預けられた。夫婦は彼女の才を見逃さなかったし、それを育て守るためなら金も時間も惜しまなかった。
 彼女から連絡をとってきたときは、それはそれは嬉しかった。パソコンにウィルスを侵入させて10秒のみメッセージを表示させるそのやり方は、相棒のやり方にそっくりだったし、男好みだった。彼女は、こちらが想定していたよりも確実に成長していた。子どもの成長は、脅威だ。
 相棒はいつものように男にお使いを頼んだ。彼女との接触。参戦協定。彼女は、気に食わないという単純な理由で、自分の生まれた国の貨幣価値を一晩でひっくり返した。鮮やかに、国を盗んでいった。そして、今日。彼女から、ここに来るように連絡があったから、律儀に守って来た。
「どうだった?」
「見事だった」
「私、おじさまたちの仲間に入れるくらいになったと思わない?」
「そうかもな」
「嬉しい」
 彼女はくすくす笑う。彼女の首元には喪服には相応しくないほど大きなルビーがかかっていた。ルビーの位置が随分と下にある気がする。きらりと光ったのは、これだったのかと、自分の節穴さに辟易する。それは、彼の国の秘宝であった。ああ、そういえば、バーであったとき、彼女は国宝であるネックレスを引きちぎっていた。ルビーやエメラルドなど、宝石という宝石をあしらったそれを勢いよく。きっとそのルビーだ。
 彼女は男の視線に気づく。ルビーをトントンと叩く。
「綺麗よね」
「似合うよ」
「えー? ほんと?」
「おお」
「このルビー、おじさまにあげたいの」
「お嬢ちゃんの方が似合ってるぜ」
「ううん」
 彼女はにっこりと、笑う。知らない顔だった。大きくなって、こちらが老ける訳だ。
「これ、もらってくれないと、おじさまの胸に穴を開けたくなってしまうわ」
「どういうことだ?」
 急に訳のわからないことを言われると困惑してしまう。彼女はまだくすくす笑う。
「もらってばかりだったから、もらって欲しいってだけよ。じゃないと、おじさまが欲しくなってしまうわ」
 ああ、そういうことかと合点する。ちょっと見ない間に、本当に大きくなった。
 風が凪ぐ。すっかり汗は引いたのに、また生ぬるい空気がじっとりと首周りを蠢き出す。この時ばかりは自慢の髭を剃りたくなる。まぁ、剃らないけれど。
 男は彼女の頭をぽんぽんと、触る。そうすると彼女は子犬のようになることを知っている。存外その表情は可愛いし、気に入っている。
「あんまり俺をからかうな」
 照れ隠しであることをきっと彼女は知っている。人が思うよりも照れてしまう性分は、直したくても直せなかった。もう直す気もない。
 彼女の首にかかっている、ルビーのネックレスをひらりと取る。男は自分にそのネックレスをかけてみた。似合わない。彼女は男を見て、やはりくすくすと笑った。もう、会わない予感があった。
「とっても似合うわ、おじさま」
 男は、にたりと口角をあげる。





 さて、私は満足していた。母国をボッコボコにしてやったし、あげたいものをあげたい人にあげることができた。バーであったあの日、ロックグラスに入り込んだ、大きなルビーを少し加工して大柄のネックレスにした。必ず渡したかった。おじさまの心臓あたりにルビーがくるように調節して、それが功を奏した。なるほど、ルビーは想定通りにおじさまの心臓あたりに位置した。
 バックの中には小さな水鉄砲を入れていた。おじさまが持たせてくれた銃よりずっとずっと軽い。自分が銃を持っている気持ちになりたかったからだ。
 おじさまとは先ほど別れた。もう2度と会わないと予感する。その方がお互いのためなのだ。私は現実社会に戻っていくし、おじさまはおじさまの冒険譚を紡ぐ必要がある。
 いつか終わりがくる日を、私は待っている。きっとおじさまに優しい死はない。細い体に銃弾がめり込むのか、法的な裁きがあるのか。いずれにしても、私の方がきっと長生きだ。だから、骨になったおじさまを大事にできる。このお墓を作ったのも、待ち合わせ場所をここに指定したのも、その証拠を自分に刻むためだった。おじさまはきっと知らないし、知ろうともしないだろう。「面白い女になったな」くらいの感覚なのだ。知ってるし、だから、悔しい。
 ゆりかごのような時間を思い出す。私を社会に送り出してくれた、私の初恋。どれだけの意味があるのか、知ってほしくもあり、知らないでいて欲しかった。だから、心臓にルビーを捧げた。赤か煌めくそれは、血にも似ている。まるで、私がおじさまの胸を撃ったみたいな、そんな気持ちに浸りたかった。そしていま、その気持ちに浸っている。
 おじさまの名前が書いてある墓を撫でる。おじさまの骨はきっとカサカサで、乾いているのだろう。トントンと箸で叩いたら、すぐに割れてしまいそう。それとも勢いよくやらないと割れないかな。割れてしまったその小さなかけらを私はきっとむしゃむしゃと食べたくなるのだろう。小さく収まった壺を大事に抱えて、ここに収めて、毎年この時期になったら思い出したようにお参りしよう。そうしたら、ほら、またゆりかごみたい。
 ブロロロとエンジンの音がする。バッグの中から水鉄砲を出す。走り出した車に銃口を向ける。
「バーン!」
 勢いよく、水が飛び出す。



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