シェヘラザードにカプチーノを

 新月のせいで、夜はいつもより色濃かった。ヒールで走るのなんて、初めてだ。息が上がる。運動、頑張ってよかった。店の前で止まる。髪を整える。手鏡でメイクを確認する。久しぶりに会うだろう、あの人に見合うかな。手に握ったネックレスをつける。もう少し派手なワンピースを選べばよかったかも。ドアを開けて、カウンターに向かう。
 ウィスキーは水割りが好き。煙草はタールが低いのが好き。バーは暗いのが好き。
 地下に潜むようなそのバーは、数ヶ月ぶりでも変わらずそこにあった。マスターは寡黙にシェイカーを振る。客を選ぶような傲慢さが、好きだ。カウンターには私のグラスと灰皿、一本煙のたつ煙草だけが置かれていた。
「ウィスキーはお好き?」
 隣の客に尋ねる。幼い頃に聴いた千夜一夜物語の風体を伴って、客はシケモクを燻らせていた。ああ、懐かしい。嬉しい。
 帽子はいつも目深に被っていて、照れ屋なのかと思っていたけれど、それに明確な理由があると知ってから、何も問わなくなった。トレードマークから覗く髭は相変わらず硬くて痛そうだ。
「ロックがな」
 煙で燻されたような声が舞う。確かな温度を残して、穏やかなジャズのリズムみたいな空気を纏わせている。手が震えたのは、空気が揺れたせいだ。間違いない。
 客の手元にはいつの間にやらロックグラスがあった。硬い氷が音を立てて回る。私の手元にあるロックグラスの中の色と同じだった。
「知ってるわ」
 声が震えそう。口が乾く。知らんふりして、言葉を紡ぐ。
「お子様が飲めるやつじゃないぜ、お嬢ちゃん」
「私がお子様とでも?」
 首元の宝石を人差し指で撫でる。少しばかり挑発的に笑ってみる。目を見やると、客は気まずそうに帽子を整えた。
「これは、失礼したな」
 鼻を鳴らして、ウィスキーを飲む。甘やかな香りが鼻腔を通っていく。よく冷えているせいか、口の中がすっと冷たい。その割に喉ばかりが熱くなるから、体が混乱する。いつものことだ。
 首元のネックレスは今の私の格好には明らかに不釣り合いなほど豪奢であった。ダイヤが散りばめられ、大振りのエメラルドが二つ、ルビーが中央に一つ、鎮座していた。硬くて、冷たい。このバーにも合わない。数時間前に手に入れたから、合わないことは分かっていたけれど、それでも、こんなに似合わないものかと眉を下げる。とはいえ、見せたい人に見せられたから、満足ではある。
 数時間前忍び込んだ我が実家は、相変わらずの豪勢さであった。記憶していた場所に相変わらず飾ってあったものだから、前夜祭の余興にひとつ、やってやった。このネックレスひとつ取ったくらいで、どうなるというわけではないけれど、ちょっかいくらいにはちょうど良い。
 煙草を一服。気づけばそんなに吸っていないのに、半分以上灰になっていた。人差し指で落とす。美味しくなさそうだから、潰す。こんな風に簡単にあいつらもやれればいいのだけれど。それでは味気ないか。馬鹿な家来を思い出す。
 一国の王女であった私は、常に馬鹿な家来に狙われ続けていた。私が、少しばかり賢くて、アラを見つけるのが上手だからって、あんまりだ。王であった父は、国の存亡よりも娘の命を優先させた。だから、私は生きている。
 復讐は柄ではないけれど、ちょっと最近ますます弛んでるみたいだから、悪戯をしてやろうと思った。明日、私は再度実家を訪れる。国庫たる国家銀行のデータをハッキングする。それで、おしまい。国債の信用は落ちるかもしれないけれど、知らない。あんなガバガバな警備なのが悪い。
 隣の客がネックレスを見ている。どうだ、と胸を張る。すぐ目を逸らすから、背中が少し丸まってしまった。褒めてくれたっていいじゃん。
「その件から手を引きな。お嬢ちゃんの手には負えない」
 彼のグラスが軽やかな音を響かせる。いつの間にかマスターはいなかった。薄暗い間接照明が、私と彼のグラスに光を与えていた。眩しくて、見ていられない。気づけば、彼のグラスにはあと少ししかウィスキーは残っていなかった。私は一舐めした程度だというのに。
 彼を見やると、表情ひとつ変えないで、カウンターの奥の酒の瓶を眺めていた。記憶の中の彼と寸分違わない。カプチーノのお嬢ちゃんだった私がウィスキーを舐められる程度に時は流れてるはずなのに。なんか、悔しくて、また前を真っ直ぐみる。彼の方なんか、二度と見てやんない。
「お断りよ」
 ネックレスが輝く。グラスほどの輝きはない。ちらりと横目で見る。本当に、変わらない。私を盗み出してくれた人達。ヒーロー、救世主、恩人。どの言葉も仰々しすぎる。私、大人になったでしょ、おじさま? そう言えればきっと楽だけど、癪だから、言ってやんない。
「だろうな」
「そちらが手を引く番よ、おじさま」
「お断りだ」
「じゃあ、どうしましょう?」
「さあてね」
 体が冷えてきた。カプチーノが飲みたくなってきた。きっと、気のせいだ。グラスに触れると、さっきよりもうんと冷えていた。まるで、あの地下室の空気みたい。
 あの日々を思い出す。
 王であった父の頼る先はルパン三世だった。今思えば、私を救う手段など、いくらでもあったはずだが、父に相談相手はいなく、祖父の代から繋がっていたルパン一族しか思いつかなかっただけだと思う。
 まるでこのバーみたいな場所だった。ルパン三世は、私をまるで花束のように優しく抱き抱えて、そこに連れて行ってくれた。空気がひんやりとして、とても一国の王女が居られるような場所ではないことは明らかだったけれど、秘密基地みたいに、ごちゃごちゃと訳のわからない機械や酒や、家具が置かれているその場所にワクワクした。初めておじさまに会った時、おじさまは私を一瞥すると、クッション性のないソファに体を再度埋めていた。きっと、どうすればいいかわからなかったのだと思う。「おじさま」「お嬢ちゃん」と呼び合うのに時間は要らなかった。
 それから2週間、おじさまと過ごした。意外にも世話焼きで、世間知らずの私に世の中の怖さも楽しさも叩き込んでくれた。チェスのルールを教えてくれた。ダーツのコツを教えてくれた。銃を手に乗せてくれた。夢のような冒険譚を語ってくれた。チェスで初めておじさまに勝った時、カプチーノを入れてくれた。初めて飲んだカプチーノは少し苦くて甘くて、何度も飲みたくなった。おじさまは、私の頭を雑に撫でてくれた。節の太い指は、随分と硬くて、岩みたいだった。それだというのに、頭に残るのは温もりと柔らかさで、不思議だなって毎回思った。正体が知りたくて何度もねだると、おじさまは「しょうがねぇな」と言って何度もくしゃくしゃにした。最後の日も、頭をくしゃくしゃにしてくれた。
 結局、そのあと、私は素敵な里親の元、それなりに幸せに過ごせた。おじさま達が目を光らせてくれていたのだと思う。育ての父は、賢い私を見込んで、15歳の誕生日に専用のPCを買ってくれた。少しいじったら、クラッキングの方法なんか、あっという間に覚えてしまった。手始めに大手の企業の秘密なんかも覗いてみたけど、もっと有効に使おうと思って、今回の計画を思いついた。思いついた時に飲んでいたのは、自分なりに淹れたカプチーノだったと思う。あの味にならない、カプチーノ。
 少し、夢想が過ぎた。隣のおじさまは、次の一杯を頼まない。ここで、終わらせるつもり? 久しぶりに会ったのに、あんまりじゃない? ため息をつかせるつもりが、私の方が先にため息をついてしまった。
「カプチーノが好きな私はもういないのよ、おじさま」
 ウィンクをひとつ。おじさまは、私の頭を撫でた時と同じ顔をする。
 この計画のために、入念に準備をした。その中で、おじさま達があの国を探っている情報が出てきた。きっと、考えていることは似ている。やり方が違うだけで。おじさま達が、父を助けた気持ちがわかる。
 ちょっと、気に食わなかった。それだけだ。
 だから、こうやっておじさまが私に一言、言いに来ることも、それが今日だろうことも分かっていた。久しぶりに会うから、目一杯オシャレして、得意の水割りではなくロックを頼んだ。
 でも、きっとまだおじさまの隣に座るには、早かった。この日のために買った深い緑色のワンピースは、地下のこのバーの暗さに馴染んでしまって、黒に見える。ロックグラスの中身が、幾分か増している。
 おじさまは懐からくしゃくしゃになった煙草の箱を出してくる。私に向かって、一本。その意味を捉えきれずに、伸びている一本をじっと見てしまう。「ん」とおじさまは、箱を振る。とりあえず、受け取り、口に咥える。おじさまも口に咥えている。火を探すと、かちりとジッポの音が顔の近くで鳴った。火が揺れる。先端を燃やす。ジリジリとつく。おじさまも、火をつける。煙を吸う。喉に煙が入り込む。喉が焼ける。燻されて、咳き込む。宝石がチャラチャラと重なり響く。
「まだまだだな、お嬢ちゃん」
 おじさまはカラカラと笑って、涙目になっている私の頭をくしゃくしゃと撫でた。折角整えたっていうのに、あの時みたい。相変わらず節は太くて、思ったより柔らかかった。なんだ、なんも変わらないじゃん。
「勝負といこうじゃねぇか、お嬢ちゃん」
 おじさまが楽しそうに私を覗き込む。彼らの物語は続いていた。彼らにとってこの件は、千夜一夜の一つの夜に過ぎない。私は? 地下の秘密基地で薄い布団にくるまって聞いていた絵物語、私はようやく登場人物として登場できる。
 今日が千夜一夜の初日だ。私は、挑む。冒険譚が、始まる。
 おじさまの瞳に、私が映る。大人の私は子どもみたいに、笑っていた。子どもの私に、見せてやりたい。あなた、大変だったけど、少し大人になったら、相変わらず元気にちょっかいかけてるわよ。拝啓 もういないあの頃の私。カプチーノが好きな私より。
 ウィスキーを飲み干す。すっかり氷は溶けて水割りみたいな薄さ。カウンターに叩きつければ、外側についた水滴が、奥の瓶まで飛んでいった。ネックレスを引きちぎって、カウンターに置く。宝石が散らばり、ルビーがロックグラスの中に入った。
 なんていい音! 祝砲みたい。
 口角を上げて指を指す。真っ直ぐ、おじさまの頭に向かって。まるで、マグナムね。
「望むところよ、おじさま!」
 バーン、と言えば、ニシシとおじさまは笑った。



企画/大人子供 2021.10