グッドモーニング、クロワッサン

 朝はパン派だと彼がいうから、クロワッサンを買った。ベッドで寝息を立てる彼の髪を撫でる。乾いて、くたびれて、顔にかかる。美味しいクロワッサンを準備しよう。
 彼と付き合って、数ヶ月が経った。彼は学校の先生だから、暇がない上に、学校の寮に暮らしているものだから、一緒に住むことは難しい。それでもたまの休日には、私の1LDKに泊まってくれた。昨日のメールを思い出す。

 ぶぶっとスマホが鳴る。私と彼はメールでやりとりをしている。連絡を気にしてしまう私から、チャットでの連絡はやめてほしいと言った。チャットからの連絡じゃなければ、いちいち確認することもないと思ったのと、いつまで経っても付かない既読の文字にハラハラしてしまうことを避けたかった。
 彼からは短いメールが来る。いつにも増して、そのメールの文面は短かった。
「会いたい」
 そんな直接的なことを言われたのは初めてだったから面食らった。それでも高鳴る胸の鼓動は抑えられない。
「私も」
 2文字打つのに、苦労する。ものの数分で彼は現れて、私の腕の中にすっぽり収まった。気づけば寝息を立てていた。

 そして今に至る。彼はまだ眠っている。栄養が偏っている彼のために腕を振るう。パプリカ、レタスを皿に散らす。ベーコンと卵は焼く。小気味良い音がキッチンを揺らす。タンパク質が焦げる匂いってなんでこんなに魅力的なのだろう。白い皿にベーコンのピンクと卵の黄色、白が映える。テーブルにランチョマットを敷いて、皿を置く。太陽の光がテーブルを舐めるように動く。水を湯沸かし器に入れる。かちゃんと台座にはめると、早速、コポコポと音を立て始めた。クロワッサンをトースターに入れる。だいたい2分くらい。彼をそろそろ起こさねば。

 ベッドでは彼が布団にくるまって目を閉じていた。直感的に起きているな、と思った。彼の上にのしかかる。
「起きてるでしょ?」
「…………バレてたか」
 彼の手が私の背中に回る。乾燥してごわついた手は、今ばかりは私のためにある。彼の胸に耳を当てる。とくっとくっと規則的な音が響く。
「どうした?」
「生きてるね」
「そうだな」
 彼の顔を見ると、何を当たり前のことをとでも言いたげに私を見ていた。生きている、それが大事なのだと、伝えたい。でも、伝えない。それを言えば、彼はやはり、何を当たり前なことをと、同じ顔をするに決まっている。
「朝ごはん出来るよ」
「そうだと思った」
 彼のお腹あたりに力が入り、ぐっと起き上がった。同時に彼の膝の上に私は座る形になった。こんな歳にもなって、誰かの膝の上に座るなんて、恥ずかしい。顔を下げると、彼は私の頭を撫でる。そそくさとベッドを降りて、クロワッサンの具合を見に行く。ちょうどよく色がついていた。小さめの陶器の皿に乗せると、少しオシャレに見えた。彼にとってそれはきっと何でもないことなのだろうけど、私にとっては大事なことだった。ランチョマットの上に彼の分と私の分を乗せる。
「うまそう」
「うまいよ」
 テーブルの手前右側に彼はいつも座る。だから私はその隣に座る。
「クロワッサン?」
「嫌い?」
 彼は難しい顔をする。あまり見ない表情だった。
「笑わないでくれよ」
「何を?」
「見ればわかる」
 私の疑問をほっぽり出して彼は手を合わせる。私も手を合わせる。
「いただきます」
 彼は一呼吸ついて、クロワッサンを手に取る。皮を剥く。手頃な大きさに千切っていた。ちまちまと口に運ぶ。なるほど、これは面白い。彼は気まずそうに言い訳する。
「こうして食べれば口周りとかにつかないからさ」
「そうだね」
「笑おうとしてたろ」
「そりゃね」
 彼は澄ました顔で前を向き、クロワッサンを千切る。合理的だろ? とでも言いたげで、なんだか可愛らしい。私は小さく笑って、クロワッサンを口に運ぶ。バターの香りが鼻腔をくすぐる。口に細かな皮がつく。気にせず食べていると、彼が同じように小さく笑う。穏やかな、朝。




 目が覚めてしまって、何かを見るけれど、それが何かは分からない。目の前にあるのは暗い空間だった。シャッターはしまっている。窓を開けるまで、体力が回復しない。
 朝は嫌いだ。前の男を思い出す。それ以上に現実を突きつけられるようで苦しい。宵闇に浮かぶ彼の柔らかさに随分助けられているはずなのに、こればかりは仕方ない。きっと彼との関係が発展したとしても、この嫌な気持ちばかりはどうもできないと思う。相変わらず、バーで飲むだけの関係だし、ますますどうもできない。
 ぼうっと、意識を巡らせる。何か、見ていた気がする。夢? 久しぶりに見た気がするけど、覚えていない。いい夢だったような。いつまでも浸っていたいような、浸りすぎたら抜け出せないような、静かな底なし沼を思い浮かべる。
 スマホのアラームは鳴っていない。メールも来ていない。目を瞑っても眠れそうにないから、ベッドから抜け出す。ローテーブルに足をぶつける。日めくりカレンダーが倒れる。手に取ってめくる。クロワッサンの皮をめくっているようだな、なんて、取り留めもないことを思った。



企画/永遠 2021.1