ペテン師のランタンに月が咲く

女はカフェの窓から夜を眺めていた。ビルの明かりはとっくに消えていたが、夜はいつもより明るくて、おどけているようだった。車道のど真ん中を真オレンジのかぼちゃをかぶった奴らがくるくると回りながら列をなしている。みんながみんなして道化を演じるこの日はいつもよりは幾分か賑やかしい。昨日降った雨が彼らの靴先を濡らしているだろうに、御構い無しだ。数年前に出来上がったこの街はいつだってハロウィンのようだった。
女は事も無げに茶を飲んでいる。毎年同じ日に同じ場所にいることが女の唯一の習慣だった。ここ数年は同じものを頼んでいる。息抜きにもってこいの茶。白磁の器に夕焼け色が揺れる。街灯の色か、茶、本来の色か。どちらもだろう。口に含むと、求めていた香りが鼻孔を抜ける。血の通っていない頬がほんのりと染まる。黒く染められた絹糸のような髪が揺れた。肩より長いそれは、テーブルに水面のような模様を描いていた。
店内は時期に似合わず静かだった。4つほどの丸テーブルに品良く木製の椅子が収まっている。バーテーブルは年輪の分だけ丈夫で、ずっしり構えていた。カウンターの奥は、マスターのこだわりなのか、東洋の茶器ばかりが所狭しと並んでいた。
女の席はいつも扉から一番遠い席だった。寒くもなく、暖かくもない。外をゆっくり眺めるのに最適な場所だった。
シノワズリの茶器が女の手の中にすっぽりと包まれる。指を通して温もりが伝わる。
チリチリと鈴の音が響いた。硬いソールが規則正しく床を鳴らす。女の前でピタリと止まった。
「TRICK or TREAT?」
「お菓子あげてもイタズラするでしょ」
男が女の前に座る。白い手袋は汚れひとつなく、手に持つ杖は黒く磨かれていた。ずいぶん久しい顔の癖に、まるで昨日まで一緒にいたような、むず痒い感覚を覚えた。むず痒さは喉越しを通り消える。
「しないよ。僕は生まれてこのかたイタズラなんてしたことないさ」
「嘘」
「ほんと」
鉄の仮面が鈍く明かりを反射する。見えてようが見えてまいが、男にとってこの世は大したことない。男は片手をあげてマスターを呼ぶ。珈琲を頼んで、また女に顔を向けた。男の口角が上がりっぱなしだ。そこにあるのが定位置であるかのようにも見える。
「何飲んでるの?」
「菊茶」
「へー、なんだいそれは」
「不老長寿を願って飲まれるお茶。眼精疲労の効能があるとされる」
「出典は?」
「秘密よ」
「君に不老長寿なんて必要ないだろう」
「そうね。でも、飲みたいの」
「ふーん、まぁ、どうだっていいんだけどさ」
髭を蓄えたマスターが男の前に珈琲を置く。ありがと、と答えると、一口つける。うえ、と舌を出し、男は珈琲カップを横にずらした。あまりお口に合わなかったらしい。
「君、昨日ここで口説かれたろ」
女はカップに口をつける。昨夜を思い出す。
今日よりも姦しくない、てっぺんを超えた夜だった。頬に傷のある男。甘いマスクに甘い声。スーツの襟元から見える赤いタトゥーが血のようにも炎のようにも見えた。きっと彼の血は冷たいし、冬の似合う男だった。自分の魅力を知って、それを臆せず出してきた。女の周りにはいないタイプの男だった。
「口説かれたわね」
「どういう男か知ってるの?」
「なんとなく」
女が茶器をテーブルに置く。先ほど置いた時より、高い音が鳴った気がした。
昨日の男は、ケビンと名乗った。ここの喫茶店は曜日と時間帯によってはパブの要素を持つ。カウンターに座っていたら、男が隣に座ってきた。男のビールはすっかり気が抜けていたし、女のワインは香りが抜けていた。ケビンが優しいふりをして「お名前は?」と聞いてきたから、偽名を名乗った。ケビンという名前だって偽名だし、それくらいおあいこだろう。
ケビンは女についてあれやこれやと褒めてきたから、女も同じだけ褒めた。ケビンはわざと目尻を落として、頬をかく真似事までした。気の抜けたビールを一気に飲んでむせてみたりした。女は小さく笑うにとどまった。ケビンの一挙手一投足はどれも彼のものではなかった。気がつけば約束を取り付けられていた。面倒ではあったが、好奇心が上回った。 女はこの後ケビンに会う。
「じゃあ、いいや。一応話をしとこうと思ってきたけど」
目の前の男がコツコツと指で机を鳴らす。男の口元は相変わらず緩んだままだった。
「意外と優しいわよね」
男がわかりやすくむくれる。
「意外とは失敬な。ちゃんと注意するべき時は注意するし、褒めるべき時は褒めるさ。紳士だからね」
「ご忠告どうも」
男の珈琲はすっかり湯気を消し、黒く波打つだけだった。ヘルサレムズロットができた時のことを思い出す。上を覗いた時、変な街が来たものだと、呆れた。隣の世界の住人たちは、様々な文化を持っていて、その文化の大半が祈りを基盤にして出来ていることを知った。祈ったところで何が変わるわけでもないことを知っているはずなのに、祈らざるを得ない、その焦燥感に興味を持った。女はそう言ったものを知らない。持て余すほどの時間を過ごす女にとって、退屈とは親友だった。初めてヘルサレムズロットに来た時、目の前の男がニヤニヤしながら話しかけてきたような気がする。男は退屈を憎んでいたが、親友でもあったのだと、女は後から気づいた。
かぼちゃの列がまばらになっていた。霞みがかって夜はますます曖昧になる。
「私あなたになって名乗ったっけ」
「えー、なんだっけ。マリー? ダリア?」
手に顎を乗せて考え込んでいる。真剣に悩んでいるようだった。
この男はいつだってふざけ晒していた。軽妙といえば聞こえはいいが、真面目に何かをしているところは見たことなかった。女に絡むのだって暇だったからに相違ない。人間に与えられる以上の年月を与えられたものは、堕落か狂気という結末でしかあり得ない。女は自分の結末を眺める。遠くに約束されたそれは、いつ眺めても凄惨で、見られたものではなかった。
菊茶を一口すする。かぼちゃの列が途切れる。
ハロウィンはそろそろ終盤だ。女は男の名前を思い出す。人間の堕落を愛する男。堕落王。名前は重要だと何かに書いてあった。それは物事の特性を音だけで表す。それは物事の芯を決定づける。結果であり、呪いだ。
男はまだ悩んでいるようだった。菊がシノワズリのカップの底にへばりつく。菊が菊という名前じゃなかったら、なんと言っていたんだろう。シェイクスピアみたいに女々しいことを考えてしまった事実に女は苦笑する。
「そういえば、その口説いてきた人と今から約束があるの」
「えっ、そうなの?」
男は慌てるでもなく、椅子を引く。
「じゃぁ退散しよう。面倒なことになりそうだし、僕がいない方が面白いことが起きそうだ」
「優しいって言ったの撤回する」
「なーんで?人生には余興が必要でしょ?」
「そろそろ時間よ」
「しょうがないな」
男が立ったまま、珈琲カップを持ち、一気に飲み干す。口元についた液体を親指で拭った。白い手袋が薄く汚れる。杖を持ち直し、男は女に顔を向ける。
「ねぇ、今度僕がお茶に誘ったら、来てくれるかい?」
女が顔を上げる。首を上に動かすのは、久方ぶりだった。見上げる、なんて、この街が出来た時以来だった。男はニヤリと黙っていた。答えを知っているようで、腹立たしい。だからこそのとびきりの澄まし顔で、返してやる。
「ええ。都合が合えば」
そろそろパブの時間だ。ケビンが来るだろう。茶をワインに変えて、ケビンはビールを携えて、会話を交わすのだろう。火花みたいな一瞬を女は楽しみにしている。
男は鼻を鳴らす。
「一年後の今の時間、僕とお茶をしよう。じゃないと」
踵が一定のリズムで鳴る。男は振り返らない。
「イタズラしちゃうんだからね」
鈴が響く。窓に女は映らない。女の影は赤い。
「いいわ。楽しみにしてる」
冬はもう、すぐそこまで来ていた。



企画/秋 2020.10