朝をくべる
朝が来てしまった。
彼の頭が枕にあって、朝日がぎらついてた。窓から流れ込む陽の光が私ばかりを突き刺す。
背を向けていた。次の一言を私は知っている。こういうことはよくあった。何人もの男がそうやって困ったように言ってきた。何度も経験したからこそ、彼で経験したくなかった。
私は、弱い、女、だから。涙なぞ、見せるわけにいかない。彼の中の私は、泣きそうになっていても、泣いている女であってはならない。儚くて、危ない、弱くて、拙い。それが、私。
「もう、やめよう」
肌に触れる布が、少し汗ばんでいる。
相澤さんと初めて会ったのは高校時代だった。冗談交じりに開催された合コンで、人数合わせの二人はそのまま連絡先だけ交換して、少しばかりの同情を共有して別れたのだった。それから10年後、今のことだけれど、あの会見を見た後、懐かしくなって、気まぐれに呼んだ飲み会が定期会になった。それだけのことだった。
相澤さんは仕事で少しの間留守にしていた。ヒーロー活動なのか、教師としての仕事なのかは知らないけれど、いずれにしても大変であることに変わりはない。以前は週1ペースで飲んでいたから、その少しの間が、私にとっては長い退屈な時間に感じた。考えてみれば、多忙の身でよく付き合ってくれていた。あの時間は私にとっては間違いなく癒しの時間であった。私はジントニック、相澤さんはトニックウォーターをいつも頼む。話す内容は毎回私が選択していた。会社の愚痴や数少ない友人の話、最近ハマってること。私の言葉に、相澤さんはいつも気怠げに頷く。たまに合いの手を挟む。絶妙な合いの手はいつだって心地よかった。だから、毎回くすりと笑って終わっていた。バーを出たら、タクシーに乗って帰る。相澤さんの背中を見送った後の夜風が気持ちいいから、何度でも誘った。
最後に飲みに行った夜、相澤さんはバーでギムレットを頼んだ。酒を頼むなんて珍しいと思ったけど、まさかそんな、ひどいカクテルを頼むなぞ思っていなかった。長い別れ、なんてカクテル言葉。その言葉を望んでいなかったと気づいたのがその時だった。慄くほどに、私の心臓は強く波打つから痛くて痛くて、手放したくなった。相澤さんは「しばらく」を強調して店を出て行ったから、それを信じることにした。毎週金曜日、退勤したらメールを送る。絶対に帰ってこないことを知っていたけれど、習慣になってしまったから、今日まで続けてしまった。
久しぶりの連絡があったのは先ほどのことだ。個人携帯の電話を久しぶりにとった。手が震えていた。声も震えていたかもしれない。開口一番、本当に酷い男! と罵ってやった。電話口の相澤さんは「事実しか言ってないでしょ」などと宣った。そうなんだけど! とおもわず言ったら、相澤さんは細かい笑い声をあげていた。相澤さんにとっても長い別れのように感じていたら、嬉しいのだけれど。私の気持ちは、今まで以上に正直で素直なものだから、困惑する。
いつものバー? と聞いたら、「たまには違うところに行かないか」と言われた。少し、ほんの少しだけ心臓の音が、とんっ、と早く打った。本当に、ほんの少し。どこに?と尋ねたら、はぐらかされた。そういう手法ね、と私の中の女が意地悪く笑う。なるべく動きやすい格好で、なんて注文までつけてくる。電話を切って、鏡を見る。頬がチークの色より濃い気がした。
久しぶりにショートパンツなんてものを履いた。白のシルクのブラウスが揺れる。ほんの少し、アイシャドウを上塗りした。相澤さんが留守の間、思い切って髪を切った。くるりと、顎にかかる髪を指で弄ぶ。待ち合わせの駅には誰もいなかったし、駅員もいない。駅の前は住宅街が続いている。潮の香りがした。海も山も近いこの街は昼間だと観光客が大勢訪れる。こんな夜中に来る人間はよっぽど変わっている。ぼんやりとお情け程度についてる街灯が、やる気なく道を指し示していた。
「お待たせしました」
聞きなれた声が聞こえた。明らかに駅から来たわけではなかった。どこかに行っていたのかもしれない。久しぶりに聞いたざらついた低い声が、心臓を逆撫でた。
私は努めて普通に返事をする。
「本当ですよ」
暗闇に紛れてしまうから、そこにいるのかどうかも、正直怪しい。きっといつも通りの真顔でそこにいるのだろう。街灯は相澤さんの顔までは照らしてくれない。
生ぬるい空気が動いていた。セットしてきた髪が乱れる。
「じゃあ、行きましょうか」
いつもそこにいるのが当たり前とばかりに私の隣に並ぶ。あまりにも自然で、勘違いしそうになる。ずっと、いたのかも、なんて。そんな世迷言。
しばらく沈黙を守ることにした。星が綺麗だったし、夜風に当たるのは久しぶりな気がしたから、心地よさに身を任せたかった。
一歩、また一歩と足を進める。
潮の香りは強くなる。線路横の小道を入る。古民家が続いている。家の灯りがぽつぽつと消え始めていた。消えるたびに闇は深くなるし、光が眩しく感じられた。
「髪、切ったんですか」
「えっ」
「短くなってるから」
「あ、はい。さっぱり」
「お似合いですよ」
定番みたいに頬が熱くなった。連動するようにまぶたも熱くなった。横目で相澤さんを見る。
何も変わらない。無精髭も、ぼさぼさの髪も、真っ黒な服も、実は筋肉質な体つきも、なにも、あの時のまま。毎週会ってた時と、なにも変わらない。
久々に履いたスニーカーが、踵に痛みを走らせた。絆創膏を持ってきて正解だった。
小道を進んだ先は暗闇だった。生温くそよいでいた風が体にぶつかってきた。生ぬるさも全力で来ると涼しいものだなと感心してしまう。前髪なのか後ろ髪なのか、わからないけれど、目の前を髪の毛が行ったり来たりを繰り返す。
空が広がる。月は真珠みたいにまん丸で、星は砂糖のつぶみたいに白い。ひいては寄せる波の音は、適度な揺らぎを保ったまま居続けている。月やら星やらの光が反射しているせいで、暗闇が一層濃く映る。
「夜の海は?」
「初めてです」
「どうですか?」
どうですか?という質問は些か困る。月明かりに揺らめく波打ち際に、女という概念を重ねてしまう。華やかで、冷たくて、気まぐれ。わたしはいつだって女に囚われている。だからこそ、感情に蓋をしてしまう。それが明るくてぐちゃぐちゃな感情であればあるほど、丁寧に隠す。
「綺麗ね」
相澤さんは面白くもなさそうにまっすぐ前を見ていた。もちろん、わたしの姿は写っていない。
道路から砂浜に通じる階段を降りる。降りた瞬間砂だから、足を取られそうになる。
前を歩くごとに砂がスニーカーを埋める。みしりみしりと音を立てて、水分を含ませて足取りを重くさせる。空が近づく。手を伸ばせば、どこかに連れてってくれるんじゃないかと勘違いしそうなほど、まっすぐわたしに向かって月光が届いていた。一人ぼっちでいるような心持ちになって、満たされていく。
足元を見ると、波打ち際に来ていた。スニーカーの先に水飛沫がかかる。ぐちゃぐちゃの何かが漂い浮いていた。海藻のように見えるし、この世のものとも思えない。
「俺もそう思う」
その答えがどこに呼応しているの分からず、彼を振り返ると、思いのほか真後ろにいるものだから、驚いてしまう。
口元が隠れて見えない。
「夜の海は綺麗だ」
「だから連れてきたの?」
「そう」
なんてことないかのように言うものだから、私の感情は迷子になる。
私の隣に移る。相澤さんの足音は軽い。
「他に一緒に行く人はいないの?」
「いないな」
いないんだ。迷子が加速しそう。
「ここでこれでも飲んだら、美味しいだろうと思って」
目の前に缶ビールを差し出してきた。すっかりぬるくなっているんだろうとは思うけど、それはきっと素早く喉を潤してくれるだろうことをわたしは痛いほど知っている。全力でぶつかってきた風はいつのまにか姿を隠していた。湿り気が太腿あたりを這う。
指を伸ばして缶ビールを手に取った。
「愚痴でも言うつもりなのかしら」
開ける。しゅぽっと間抜けな音。隣からも間抜けな音がした。やっぱりぬるい。彼はまた笑って、それが乾いて行った。
「解決策を考えた方が合理的だろ」
「まぁ、それもそうね」
お情け程度の泡が口の中に入り込み、喉の奥へと伝う。同じものを相澤さんが飲んでいる。
「同じ景色見て、同じものを飲みたかっただけだ」
「え?」
どういうこと? という台詞は口の中で消えてしまった。意味をなさない質問であることが瞬時にわかった。口を噤んで、ビールを含む。ぬるさは時間を経て加速する。萎れる朝顔みたいな速度で、緩やかに新鮮さはうしなわれる。
「いや何、最近、特にそう思ったってだけだ。だから」
波が打つ。流れ星の一つでも落ちたかもしれない。
「また来よう」
音がうるさい。
靴擦れが、痛い。
ギラついた朝日を思い出す。あの日以来、朝が嫌いになった。
男とは、飲み屋で会った。不味そうに日本酒を飲んでいるから、冷たいビールを勧めた。
「やっぱり酒はビールだよな」
男がくしゃっと顔を歪め、眉尻を下げるから、思わず笑ってしまった。夏の太陽を思わせる男だった。白いTシャツがよく似合って、いつも髪を掻き上げていた。初めて私は、順当なお付き合いというものをした。連絡を待って、デートの誘いを数度受けて、告白された。暑い日だった。浴衣でも着ていたかもしれない。唇の一つでも交わしたような気がする。体を重ねて、朝を迎えて、旅をした。数度の四季を乗り越えて、指輪を受け取った。
私は、その後に及んで一つ隠し事をしていた。大切だからこそ、なんて陳腐な言葉だけれども、それでも、その言葉がきっと適切だ。大切に思っていたからこそ、私は私の核を伝えなかった。個性だ。私の個性は厄介極まりなく、誰からも賞賛されることのないそれだった。それでも、将来を誓ったのであれば、と、私は伝えることにした。
きっと、それは、必要なことだった。
私は本当に正しい選択をした。
正しすぎて、男に疑念だけを残してしまった。
疑念は、大きく膨らむものだと知っていたのに、何もしなかった。私の個性が賞賛されるものではないと染み入るほどに知っていたはずなのに、何もしなかった。私の過ちはそこだ。
会う回数が減っても、あげたはずの時計をしなくなっても、私は何一つ問いたださなかった。
返事もおぼろげになってきた頃、男が珍しくホテルに誘った。ひどく安心した。この人も、私を大切にしてくれていると、その想いは消えていなかったのだと確信してしまった。
男は最中に、一言、ねだった。
「唇、舐めてみて」
それは唇が湿っている間のみ発動される、本当に些細なもの。その分効果は強い。どんな相手にも媚薬を盛らせたような状態にさせる。その興奮が私に向いた時、相手は私を求めるために、私の要求をなんでも飲む。それが、私に授けられた個性だった。
合図だったんだと思う。鈍い腰の痛みとともに、じっとりと湿ったシーツをめくって、朝日を浴びた。彼の背中もじっとり湿っていた。朝日がよく似合う男の顔は、私に向いていなかった。
次の一言を私は知っている。こういうことはよくあった。何人もの男がそうやって困ったように言ってきた。何度も経験したからこそ、彼で経験したくなかった。
私は、弱い、女、だから。涙なぞ、見せるわけにいかない。彼の中の私は、泣きそうになっていても、泣いている女であってはならない。儚くて、危ない、弱くて、拙い。それが、私。
「もう、やめよう」
朝日が眩しかった。眩しすぎて、燃やしたくなった。爆ぜる花火を思い出す。
「また来よう」
そう言ってくれたけど、結局行けなかったな。
そして、最初に戻る。
靴擦れは痛いままだった。相澤さんはペースを崩さないまま缶ビールを飲み続けている。
あの男は朝日がよく似合った。相澤さんは? 唐突に用意された疑問に、私は瞬時に答えを出す。真夜中。それもこんな、夜の海みたいな優しい輝きを纏った暗闇ではない。人工的なもので彩られた街を上から見下ろしている月。見通しながらも影にいる。闇に潜みながらも、照らしてくれる。相反するけれど、同居する、そういうものが本当によく似合う。そんな気がした。
随分と男の趣味が変わったと思う。
あの男はよく喋った。相澤さんは必要なこと以外話さない。だけれど、時折今日みたいに余計なことを挟む。そういうことをされると、心が簡単に揺れるから勘弁してほしい。
自分の心の中に用意された特別な椅子をイメージする。生涯ただ一人に許された椅子。座っていたはずの男は去年の私の誕生日に去っていった。
私が用意している唯一つの特別な椅子を、がらんどうだったそれを渡しても、大丈夫なのだろうか。私は私の面倒さに辟易する。だから、面倒を起こそうと思う。
あの男が言ったことは、きっと相澤さんは言わないことを知っている。相澤さんは正しく私の個性を知っている。何度か私は彼に個性を使っている。そのたび打ち消されてしまった。
だからここで例え個性を出しても、打ち消すだろうことを知っている。
だから。
唇を舐めた。
唇が湿っている間が私に許された時間だとしたら、仮初めだとしても、貴方を奪おう。
順当なお付き合いなんて、私には許されない。こんな厄介な個性を持った人間なのだから。
私は太陽に愛されないから。
私は使い方を誤り続ける。
私から発せられるそれが、私に許された個性。
男を堕とし、女に疎まれ、老いも若いも飲み込んできた。
貴方を取り込んで、離してなんかあげない。
相澤さん、全て貴方のせい。
私を求めればいい。何もかもを捨て去って、私の何もかもを奪おうとすればいい。
その無骨な指で、ガサついた唇で、癖のついた髪で、私の首筋を撫でてほしい。
ちがう、私が求めているみたい。
求めてほしい。
求めてほしい?
ちがう、ちがうったら。そういうのではない。
そう思ってはいけない。
私は自分に辟易する。
使って、後悔する。
私はいつだって、個性に使われている。
蓋していたはずの感情が流れ出て、止まらない。後悔を押しのけて、精一杯の柔らかな笑みで、相澤さんを見る。私は「また来よう」に対する答えを持っていない。だけれど、この言葉が最も正しいと知っていた。
「きっと、必ずよ」
まっすぐ、目を見た。
相澤さんは、私を見ていた。
赤い瞳で、私の唇を捉えていた。ルージュなど、引かなければよかった。
私の個性が生ぬるい風に流されていく。
消えていく。肩に無意識に入っていた力も抜けていく。小さく笑う。笑ったのは、相澤さんもだった。
「まったく勿体無いぜ」
誰にも向かってない言葉が、夏に溶けていく。
「何がよ」
「色々だよ」
髪が降りる。唇が乾く。
月が傾く。星も同じ角度で傾いた。海のリズムは変わらない。夜は深い。太陽はない。
あの男が飲んでいたビール、泡が本当に綺麗だった。海の飛沫にも似ていたことを今更ながら思い出す。
泡を飲む。ため息を一つつく。こうなることをわかっていた。ほんの少し俯く。すぐ見上げる。きっとアイシャドウは取れてしまっている。かかとの靴擦れもずいぶん馴染んでしまった。だから、これっきりにしようと思う。
相澤さんは私をどう見てるかなんて、どうでもよい。私は、好き。以上だ。だから、時々一緒に飲んで、時々からかって、時々、笑って。そうあろう。
個性に使われるのは、もう。
足元の海藻を波が連れ去った。
仕方ないな。本当に。仕方ない。
「次は冷たいビールを用意しよう」
相澤さんが目の前で缶ビールをふる。
「楽しみにしてるわ」
私は缶ビールを重ねる。
軽い音。やっぱり、ビールは冷たいのに限る。
企画/夏 2020.7