ジントニックは裏切らない

「相澤さん」
手を挙げると、彼はかったるそうにこちらを向いた。顔の半分は布に隠れて見えないが、あの頃と全く容貌は変わらない。何より雰囲気が全く同じでうっかり笑ってしまった。
駅前というのは人通りが多いものだが、不思議なことに、一目で見つけることができた。
彼は、頭を下げて何か言おうとする。その間を奪って、話出してしまう。
「すみません、お呼び立てしてしまって」
粗雑な挨拶をしてしまった。
「いえ、何年振りでしょうね」
「高校以来ですよ」
「それくらいになりますか。よく私のことを覚えてらっしゃいましたね」
いやぁ、と私は頭をかく。あなたがあの時あまりにかったるそうで、私もそういう気持ちだったから、よく覚えてたんですよ。と言えるわけでもないから、黙って笑うことにした。
華奢な腕時計は私の手首で夜9時を指差す。



彼と私は高校時代に2度会っている。最初は合コンで。2度目は街中でばったり。
合コンにいた彼は、何も楽しくなさそうに烏龍茶をすすって、ポテトを食べていた。つまむ程度にしか食べないから、お腹が空いてしまうんじゃないかと心配した。私は合コン参加者全員とアドレスを交換して、その中の一人と付き合った。
街中にいた彼は友達と思しき二人に絡まれながら歩いていた。私の隣にはその時付き合っていた彼がいたから、挨拶程度で別れた。相変わらず目は座っていたし、かったるそうだった。その後、当時の彼とホテルに行ったことも覚えている。あのかったるそうな目も、こういう場になったらギラギラするのかな、なんて思っていた。



彼は曲がりなりにも教師でありヒーローであったから、場所は隠れ家のようなバーを選んだ。私はジントニックを、彼は仕事が入るかもしれないからと、トニックウォーターを頼んだ。
カウンターで席を並べると、意外に端正な顔立ちをしているとか、手がガサついているとか、気付かなくて良いことに気付いてしまって、一人気まずい気持ちになる。
「今日はどういったことで?」
彼はバーテンダーが出したトニックウォーターを乾杯もなしに飲み出す。私もならって、ジントニックで喉を濡らした。炭酸が口の中で弾けて、鼻の奥でライムを香らせる。上唇に水滴がついた気がしたから、少し舌で舐めとった。今の動きに気づいてないと良いのだけれど。
「会見、拝見しましたよ」
「とんだところを見られてしまいました」
「いえ、ご立派でした」
「はは、お恥ずかしい」
社会に出て上手になったことは、お世辞と先延ばし、それから誤魔化しだった。
あの事件以来、ヒーローも、あの高校も風当たりは強い。あの会見を行ったことで賛否は完全に別れた。彼が慣れぬスーツに身を包み頭を下げているものだから、おもわず笑ってしまったのであった。それでも、彼は教師としてヒーローとして至極真っ当なことを話していた。陳腐だけれど、すごいなぁ、なんて感心してしまった。お恥ずかしい。
店内は私たち以外には親密そうなカップルと疲れたサラリーマンしかいなかった。
一枚板のカウンターはオレンジの照明を反射する。自分のグラスの水滴をなぞる。しとしとと落ちる。氷はゆっくりと溶けて、中ばかり冷やしている。
私はおもむろに口を開ける。
「私、今日誕生日なんです」
「おめでとうございます」
「本当にそう思われてますか」
「思ってますよ」
「お上手ね」
足を組み替える。今朝磨いたヒールが少し見える。ダイヤのピアスが揺れて、髪が肩から流れていく。
会話は続かない。続くことを目的にはしていない。空間が欲しかった。時間が欲しかった。なんてことない、誰でもない相手とグラスを傾けたかった。いつまでも、この宙ぶらりんな時間が続いてほしい。
「誕生日なら、最初に言って欲しかったですよ」
「そこまで図々しく出来ません。お会いしたのだってずいぶん前のことですしね」
「10年前でしたっけ」
「ええ。相澤さんだって、私の立場だったら、そこまでお願いしませんでしょう」
「そもそも俺は人を呼びませんよ」
トニックウォーターが入っていたグラスの音が鳴る。からからとよく響いた。あんまり心地よく鳴るものだから、私もグラスを傾ける。
「合コン、覚えてらっしゃいますか」
「ええ。あなたに言われるまでは忘れていましたが」
「でしょうね。私もあなたが記者会見するまで忘れてました」
「何故俺を呼んだんですか」
「初恋に会いたくなったから、って言ったらどうされますか」
少しも、酔えない。酔いたくもなかった。酔ってはいけない気がした。自分の左手の薬指をなぞる。もう、諦めることにした。
彼の方を見ることが出来ない。少しばかりの言葉、上唇、指、水滴。準備は整った。
グラスを煽ったら、私はきっともう一つと頼んでしまうのだろう。そうしたら、きっと隣の彼は、時間なんで、とか言いながら扉に向かおうとする。私が彼だったら、そうする。そして、私は彼を引き止める。彼は引き止められる。いや、引き止められないでほしい。そのまま、扉に向かってほしい。いや、いてほしい。
感情がぽかりぽかりと浮かんでは消えて、また浮かんでくる。持て余し気味の感情をどうにか先へと送り出す。
「今は何されてるんですか」
私の言葉は彼に届かない。心地が良い。消えて、なくなって、女というものから解放された気分になる。もう、私の気の迷いから解放すべきだろうに、質問なんかするから、届かない言葉を続けてしまう。
「秘密」
「合理的じゃないな」
「合理がお好き?」
「基本的には、ですけどね」
「ごめんなさいね。急に呼んで、訳も分からない会話に付き合わせて」
ついうっかり、本音が漏れた。誤魔化しはもう効かない。
「いえ、かまいませんよ」
本当になんてことないことのように言う。彼はポケットから財布を出すと、紙幣を二枚カウンターに置いた。
「ただ、まぁ」
彼は席を立つ。背中が思いのほか広い。
「あなたの個性は俺には効きませんからね」
彼のガサついた10本の指の腹が私の頬に当てられる。手で顔を挟まれているのだとわかるのに時間がかかった。慣れていた、はずなのだ。だけど、知らなかった。
彼の視線が私の視線に絡みつく。鋭く切り裂いて、気付けば血がどくどくと身体中を巡っていた。薬指から手が離れる。頬が内側から熱くなる。瞼が痛い。手が冷たいし、足先も冷たい。
逃げていく。私から熱が、渦が、溶けて、消えて、なくなっていく。
赤く光る彼の目が、また、色をなくす。逆立っていたはずの髪が、すとんと落ちてしまう。噛み締めていたはずの口は、一文字に結ばれていた。
相手と言葉を交わし、匂わせて、惑わせる。私の個性は人を狂わせる。私という女に纏わり付いて、しがみつく。とんだ個性を持ったものだから、思春期の時分はずいぶん遊んだ。今は、一人の男さえ、この個性による弊害で無くしてしまった。
今日は私の誕生日。
左手にハマると思っていた指輪がこの世にはなかったのだと、ついさっき気付かされた。相手の頬を叩こうとしたのに、私は私の個性を呪ってしまった。
家に帰るには寂しすぎた。知り合いだけど知らない男。接点もなくて、2度と会わない男。彼しか思いつかなかった。スマホを取り出して電話していた時には、きっともう遅かったのだ。
女という個性から、私は、ずっと、ずっと。
ジントニックはもう、空っぽ。
「かっこいいなぁ、ヒーロー」
相澤さんはにっと笑ってくれた。



2020.2